西に向いた長田神社の鳥居前から南に歩くと、左(東)に鳥取県知事公舎が、右(西)に鳥取県庁がある。
江戸時代には、池田家の分家である東館池田家の屋敷が今の知事公舎の敷地に、西館池田家の屋敷が県庁の敷地にあった。
私が知事公舎前にある説明板の内容を読んでいると、県庁付近にいた警備員が近づいてきた。
行動を不審と思われたのだろうか。
知事公舎の南側には、山の尾根が迫り出している。
ここはかつて「天王の尾」「千騎ヶ崎」と称した古戦場である。
天王の尾とは、栗渓神社が鎮座する天王山から尾のように延びた尾根だから付いた名だろう。
江戸時代には、この崖下に宮内御門があって、鳥取城南端の境になっていた。
また鳥居前から北を見ると、鳥取西高校の通用口となる小道が延びている。
この道の先に、江戸時代には鳥取城の南御門があった。江戸時代初期には、南御門が城の大手門であった。
長田神社が鎮座する場所は、鳥取城跡のある久松山の南側の谷間である。
この谷間は江戸時代には水道谷と呼ばれていた。
正保二年(1645年)から大正4年(1915年)まで鳥取城下に水を供給した水道のあった谷である。
山中から谷間にかけて、奥新堤、奥水道、中水道、口水道という4つの水道堤を経由した水を藩の御会所の井に溜め、そこから諸方に水道管を使って配水した。
長田神社の参道沿いにある水路は、かつての水道の名残である。
大正4年に美歎(みたに)水源地が完成して、旧水道は役割を終えた。
口水道は、一部が長田神社の池泉として残っている。
長田神社の創建は詳らかではないが、古くから久松山南麓に鳥取の産土神として鎮座していたそうだ。
天文十四年(1545年)に山名誠通が久松山に鳥取城を築城した際、長田大明神は現在鳥取東照宮のある辺りに移された。
それ以降、山名、吉川、宮部、池田と、歴代鳥取城主が崇敬するところとなった。
慶安三年(1650年)、鳥取東照宮創祀に伴い、長田神社は上町の山側に移された。
元文六年(1741年)、藩主池田宗泰により本殿その他の社殿が造営された。現在の社殿は、この時のものである。
大正7年(1918年)、時の鳥取県知事により、長田神社の遷座が提唱され、大正13年(1924年)に現在地に遷座した。
長田神社の祭神は、大国主命の子の事代主神である。国土の天孫への国譲りを決断した神様である。
社殿は、国登録有形文化財に指定されている。
元文六年(1741年)に築造された社殿にしては、新しく見える。
境内には、樹齢300年の自生のケヤキがある。
大正13年に長田神社がこの地に遷座する前からあった樹木である。
長い歴史の中で崇敬されてきた神社には、年輪を重ねた巨樹のような厳かさを感じる。
昔から続く人々の信仰心が、年輪のように積み重なっているからだろうか。