播州清水寺の参拝を終え、山下に降りて、県道を南西に進むと、加東市上鴨川に至る。
ここにあるのが、上鴨川住吉神社である。
この神社の入り口には鳥居がない。自然の樹木の間に注連縄をかけ、そこに紙垂の代わりに羊歯を下げている。
このような姿が、原初の神社の在り方なのかも知れない。
上鴨川住吉神社の創建がいつかは分からない。本殿の棟札によって、本殿が正和五年(1316年)に建てられたことが分かっている。
境内に入ると、茅葺屋根の神事舞の舞台となる舞殿がある。
上鴨川住吉神社では、毎年10月第1土日に、五穀豊穣、無病息災を祈って、神事舞が行われる。
宮座が行う古式ゆかしい祭儀であり、国指定重要無形文化財となっている。御神楽、太刀舞、獅子、田楽の舞、扇の舞、翁、冠者、父の尉などといった舞が行われるそうだ。名前を聞くだけで、中世の農村の祭儀で行われていた古い舞が想像されて楽しい。
神事舞で使われる神事能面5面が、兵庫県指定文化財となっている。
拝殿もまた茅葺屋根の入母屋造りであった。思えば、瓦葺きの社殿というものは、近代以降に広まったのもので、昔の神社の建物は、茅葺が多かったのではないかと想像する。
木と茎と葉と土で出来た日本の昔の建物は、何だか優しい気がする。
拝殿の奥にあるのが、国指定重要文化財の本殿である。
本殿は、先ほど書いたように、正和五年(1316年)に建てられ、その後永享六年(1434年)に再建された。更に明応二年(1493年)に再々建された。
本殿の内陣小脇板裏と天井梁下端に明応二年の墨書があるので、現本殿がこの時のものであることは明らかであるらしい。
オーソドックスな檜皮葺の三間社流造である。鮮やかな朱色に塗られた社殿だ。
いつもそうだが、古い社殿に参ると、心が洗われる気がする。
上鴨川住吉神社から更に南西に走り、加東市上三草に戻る。ここには加東市やしろ国際学習塾という施設がある。
この学習塾一帯は、寛保二年(1742年)に三草に入部した丹羽氏が開いた三草藩の陣屋があった場所である。
学習塾の前に、三草藩陣屋跡の石碑が建っている。
三草藩と言っても、禄高1万石の小藩である。
学習塾の裏手に、三草藩の大目付尾崎弥一郎の後裔の居宅だった武家屋敷旧尾崎家住宅がある。
旧尾崎家住宅の創建は18世紀中ごろである。私が訪れたのは年末であり、公開はされていなかった。普段は土日に無料公開されている。
表の白い土塀と屋敷門を眺めるだけでも、江戸時代の小藩の武家の暮らしを窺うことができる。
上三草から更に南に行き、加東市新定にある安国寺に至る。臨済宗の寺院である。
安国寺は、寺伝によれば、暦応二年(1339年)に東福寺住職固山一鞏によって開山された。
足利尊氏は、南北朝動乱の戦死者を慰霊するために、夢窓疎石の勧めで、各国に安国寺を建立した。播磨の安国寺が当寺である。
安国寺は、禅寺らしく、閑寂な庭園を有する。
安国寺には、嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で赤松満祐に暗殺された室町幕府6代将軍足利義教の首塚がある。
播磨の守護大名赤松満祐は、有力守護大名に圧力をかけて弱体化させようとする義教に、このままいけば暗殺されるのではないかと脅威を覚え、先手を打って京都の赤松屋敷に義教を呼んで暗殺する。
満祐は、将軍の首級を提げて播州河合の堀殿城に戻った。そこから大行列で足利氏ゆかりの安国寺まで首級を運び、播州の禅僧を集め、盛大な法要をして葬ったと伝えられる。
その後赤松氏は、多方面から播州に侵攻してきた幕府軍により滅ぼされる。
足利義教の首塚は、正式には安国寺宝篋印塔と呼ばれ、加東市指定文化財となっている。
宝篋印塔の周囲は濃密な苔に覆われている。苔が不思議な空間を現出させている。
この宝篋印塔の下に義教の首が埋められたとされている。おそらく本当のことだろう。
赤松氏による将軍暗殺という前代未聞の変事は、下克上の時代の幕開けを象徴する出来事だった。
赤松氏は、生き残った政則によって、この後華麗に復活するが、江戸時代に至る前に滅亡する。
私は徳川傘下で生き残った諸大名より、さっぱり滅んだ赤松氏に、不思議と愛着を覚える。
自分を殺害した赤松氏が播州で滅んでいく姿を、安国寺から義教はどんな思いで見ていたことだろう。