帝釈寺から兵庫県道4号線を西進すると、余部(あまるべ)鉄橋で有名な兵庫県美方郡香美町香住区余部の集落に至る。
余部の集落から北上し、日本海に突き出た半島の突端にある集落を目指した。
平家の落人集落とされる御崎集落のことである。
余部の集落から、日本海に面した断崖の中腹を縫うように通る山道を走る。
この先に果たして人が住んでいるのだろうかと疑うほどの僻地である。
余部の集落から3キロメートル以上走ると、突然目の前に断崖絶壁に寄りかかるように存在する小集落が現れる。これが御崎集落である。
但馬の日本海沿いは、岩山が海にぎざぎざに突き出たリアス式海岸になっていて、その地質学的に特異な景色から、山陰海岸国立公園に指定されている。
御崎集落は、そんな半島状となった山の中腹にある。集落から東にかけては、山陰海岸の見事な眺望が開けている。
この御崎集落は、寿永四年(1185年)三月の壇ノ浦の合戦に敗れ、隠岐を目指して日本海に脱出した門脇宰相平教盛、その子通盛の妻小宰相局、安徳天皇の護衛の伊賀平内左衛門家長、その子光長、矢引六郎右衛門ら一行が漂着して住み着いた場所と伝えられている。
平教盛は、史実では壇ノ浦で亡くなったとされていて、山口県の赤間神宮に墓石がある。
このような、「実は生きていてこの地で亡くなった」というような伝説は、平家伝説に限らず日本中でよくある話である。
集落から山の方に歩く道がある。その道を進むと、平教盛や小宰相局の墓石があった。
墓石は割合新しい。昭和43年に教盛の子孫によって建てられたものである。
元々の墓石は、教盛の墓石の前に立つ卒塔婆石であろう。
平教盛は、平清盛の異母弟で、清盛の信任厚く、六波羅の清盛邸門前に屋敷を構えたことから、門脇宰相と呼ばれた。
伝説では、教盛一行が、日本海を漂流し、ここに近い伊笹岬の沖に差し掛かると、岬の上の山中から一条の煙が立ち上るのが見えた。
一行が船戸に上陸し、煙の上る場所を目指して崖をよじ登ると、小さな庵に森本浄実坊という修験者が住んでいた。
一行は、浄実坊の施した食料で飢えをしのいだ。そして浄実坊の勧めに従って、一行はこの地に土着したという。
墓石からさらに奥に進むと鳥居が見えてくる。集落の氏神である平内神社である。
伊賀平内左衛門の平内からきた社名だろう。
平内神社では、毎年1月28日に村人総出で「百手の儀式」という祭事が行われている。
平家の揚羽紋をつけた裃姿の「矢取り」と呼ばれる人たちが、行列を作って平内神社に向かう。
参道両脇には、平家の赤い幟が立つ。
そして、境内にある銀杏の木に、源氏と見立てた的をかけ、門脇、伊賀、矢引の武将に扮した3人の少年が、その的めがけて101本の矢を放つという儀式である。
これは平家再興の願いを込めて行われる新年武道始めの儀式である。
また集落の手前にある駐車場には、矢引六郎右衛門の子孫で、幕末の大老井伊直弼が師事したという禅僧矢引俊龍和尚の墓石がある。
矢引俊龍は、寛政元年(1788年)にこの地で生まれ、10歳の時に、美方郡浜坂にある龍満寺で得度した。
その後愛知県豊田市にある香積寺の住職となった。学徳高い禅僧として尊敬され、大老井伊直弼も師事した。
嘉永六年(1853年)のペリー来航により、開国をアメリカに迫られた直弼は、鎖国を続けるか開国をするかで悩んだ。
直弼が俊龍に相談すると、俊龍は国内外の情勢を見通し、もはや鎖国を続けている場合ではないと諭し、直弼にアメリカと開国通商することを説いた。
俊龍は、品川東海寺での日米通商条約の調印式にも列席し、通訳も務めたという。
万延元年(1860年)の桜田門外の変で、井伊直弼が殺害されると、俊龍は直弼の葬儀の導師を務め、その後近江国彦根の井伊家の菩提寺の住職になり、直弼の菩提を弔った。
こうして見ると、俊龍和尚は、日本を開国に導いた、文字通り日本の歴史を変えた人物である。
私は御崎集落を訪れて、この21世紀に、平家の子孫が平家復興を夢見て、源氏に見立てた的に矢を射っていることを知り驚いた。
だが、その平家の落人の子孫が、源氏である徳川家の大老に働きかけ、日本を開国に導き、日本の歴史を変え、更には徳川幕府滅亡のきっかけを作ったことに、大きな歴史の皮肉を感じた。