福知山市 御霊神社

 明智日向守光秀。

 彼が起こした本能寺の変は、日本の歴史の帰趨に大きな影響を与えた。日本史上、その発生によって、これほど後の歴史が変わってしまった謀反はないだろう。

 もし本能寺の変がなかったら、というのは、歴史愛好家がよく取り上げる話題である。

 また光秀がなぜ謀反を起こしたのか、ということも、昔から議論されてきた。

 京都府福知山市西中ノ町にある御霊(ごりょう)神社は、その明智日向守光秀を祀る神社である。

御霊神社の鳥居

鳥居の扁額

 信長の家臣だった光秀は、天正三年(1575年)から信長の命で丹波攻略に取り掛かった。光秀は、天正七年(1579年)に丹波平定を成し遂げ、信長から丹波一国を領地として与えられた。

 福知山城を建築し、今の福知山城下町の基礎を作ったのは光秀である。後日、福知山市治水記念館や福知山城の記事でも紹介しようと思うが、光秀の記憶は、今でもこの街に色濃く残っている。

御霊神社の説明板

 日本全国に御霊神社という名の神社は多くあるが、大抵は世に恨みを残して非業の死を遂げた怨霊を祀っている。

 光秀も、無念の死を遂げたと言えばそうだとも言えるが、それは彼が起こした謀反の目的によって答えが違ってくるだろう。

狛犬

 信長への意趣返しが目的だったら、信長の天下をぶち壊した時点で謀反は成功である。そうだとしたら、光秀も本懐を遂げたと思ったことだろう。

 私には、光秀ほどの怜悧な人物が、信長を倒した後に自分が天下を奪えると本気で考えていたとは思えない。

 光秀は、天下が信長のものでも秀吉のものでもなく、徳川のものになったことに、あの世で満足したのではないだろうか。

石段から拝殿を望む

 さて、御霊神社の祭神は、お稲荷さんで知られる宇賀御霊大神(うがのみたまおおかみ)と明智光秀公である。

 元々は福知山城下の紺屋町に稲荷八社として祀られていた。宝永元年(1704年)、藩主朽木稙昌の時代に、日蓮宗の常照寺に祀られていた光秀の祠を稲荷八社に合祀することになった。

拝殿

拝殿蟇股の彫刻

 当時の福知山藩領内では、水害や火災が度重なり、光秀の怨霊の仕業と恐れられた。藩主は、光秀の霊を鎮めるために、稲荷八社に光秀を祀り、御霊神社と名を改めた。

 御霊神社は、大正6年に現在地に遷座した。御霊神社のある場所は、御霊公園という立体駐車場の付いた広い公園に隣接している。公園は、遊びに訪れた家族連れで賑わっていた。

頼山陽の碑

 境内には、頼山陽の「日本外史」の中の、光秀が謀反を決意した場面の漢文を刻んだ石碑がある。

 頼山陽は、江戸時代後期に活躍した漢詩人、儒学者である。山陽が源平争乱から徳川治世までの武家の歴史を漢文で著した「日本外史」は、その血沸き肉躍る名文により、幕末のベストセラーになった。

 幕末の志士は、「日本外史」の血気の文に興奮し、維新回天の大業に身を投じた。

 昭和・平成の政治家、実業家が、司馬遼太郎の小説を読んで高揚し、行動を起こしたのと通じるものがあるだろう。

 「吾敵正在本能寺(吾敵は正に本能寺にあり)」というよく知られた言葉は、光秀が実際に言ったものではなく、山陽が「日本外史」の中で光秀に言わせたものである。

拝殿と本殿

本殿

 天正十年(1582年)、備中高松城を攻める秀吉は、信長に本隊の援軍を要請する。

 信長は、先発させた光秀と合流して、秀吉の毛利攻めを救援するつもりだった。

 本能寺の変がなければ、信長は中国地方で毛利の大軍と決戦をしていたことだろう。そうなれば、後の長州藩というものも、なかったことだろう。

本殿の彫刻

脇障子の彫刻

 光秀は、信長に同行して秀吉の応援に行くというのが、どうも耐え難かったのではないか。

 光秀は、信長と長子の信忠を殺害したとしても、信長家臣団が自分についてくるとは、まさか信じていなかっただろう。

 いかに畿内が空白地帯になっていたとは言え、たかだか1万3千の兵力で、畿内全域を制圧できるとは思っていなかったことだろう。

 現状維持よりも、主君信長のいない世界を作りたかったとしか思えない。

光秀の免税を詠んだ川柳

 光秀は、福知山の領民の税を軽減した。丹波では、光秀はそう悪くは思われていない。

 御霊神社の境内には、「免税と 決めて光秀 名を残し」という川柳を刻んだ碑がある。

 光秀は今も福知山の人々の心の中に生きている。

 光秀は、電光石火の勢いで畿内に戻ってきた秀吉に山崎の合戦で敗れ、逃亡中に討ち取られる。

 光秀の謀反がなければ、日本のその後の歴史だけでなく、アジアの歴史も、世界の歴史も大きく変わっていたことだろう。

 一個人の人間臭い感情が、世界を変えてしまうことは、いつの時代でもあり得るのである。