柿本観音堂から南下し、国道9号線に戻る。国道9号線を東進し、野花交差点を左折北進して、国道426号線を北上する。
国道426号線は、南北に延びる谷間を通っている。この谷間の東側に聳えるのが、三岳山である。
三岳山は、三角錐の美しい山容をしている。標高約839メートルの山で、鎌倉時代や南北朝時代には、山岳修験の聖地とされた。
三岳山の西側の谷間は、古くは三岳郷と呼ばれた。比叡山妙香院の荘園佐々木荘として栄えたという。
今日は、その三岳郷の神社二社を紹介する。一つ目は、福知山市一ノ宮にある一宮(いっきゅう)神社である。
一宮神社の祭神は、第16代仁徳天皇とされている。
神社には、仁徳天皇の御姿を刻んだとされる、木造男神坐像が伝わっている。
像高58センチメートルの一木造りの像である。冠をかぶり、袍を着け、胸の前で両手で笏を持つ。檜の一木材から、これら全てを彫り出している。
彩色はなく、白木で造られている。9~10世紀の造像と言われている。
仏像より素朴な神像もいいものだ。一宮神社木造男神坐像は、福知山市指定有形文化財となっている。
元々日本の神道では、神様の像は作らなかったのだが、仏像の影響を受けて、平安時代には神像も作られるようになった。
神道は、仏教の影響を受けて建物や神像を持つようになった。
一宮神社の本殿は、そう古いものではなさそうだ。
三岳山の山麓には、寺院や神社が数多くある。この一宮神社も、三岳山信仰となにがしかの関係があったのだろう。
一宮神社から北上し、福知山市下佐々木にある佐々木神社を訪れた。
佐々木神社の祭神は、瀬袁理都媛(せおりつひめ)命である。瀬袁理都媛命は、大祓詞に出てくる瀬織津姫命と同じであろう。記紀には出てこない神様である。禊を象徴する水神、滝神とされている。
本殿は覆屋に覆われている。
本殿は、一間社流造であった。
佐々木神社にも、一躯の神像が伝わっている。木造春日明神坐像である。
この像は、杉材の一木造りで、内刳もしていない。そのため、両足から腹にかけて大きく干割れしている。
威厳のある眼光が表現されていて、神威が感じられる神像である。京都府登録有形文化財だ。
この像の底部に墨書がある。それを読むと、康永元年(1342年)の作であることがわかる。
墨書に「和光同塵」「本地垂迹」という言葉が見える。どちらも仏教用語である。
和光同塵の塵とは俗世間のことである。和光は、光を和らげるという意味で、仏を受け入れない俗世間に合わせるため、仏が光を和らげて世に同じることを指す言葉である。
仏菩薩が衆生を救うため、悟りの智慧の光を敢えて隠して、煩悩にまみれた俗世間に交じって活動することを示す言葉だ。
本地垂迹は、本地仏が仮に神々の姿になって日本に垂迹することを指す言葉である。
どちらも中世日本の神仏習合の文化を現わす言葉だ。
神社の境内には、中世の神仏習合の世界そのままに、石仏が置かれている。
中央の大きな像は、前回、前々回の記事でも紹介した青面金剛像である。
この像には、寛延元年(1748年)の銘が刻まれている。
隣の阿弥陀如来坐像には、享保十八年(1733年)の銘がある。
この時代には、神社と仏像の同居は、当たり前のことだったのだろう。
境内の片隅に、古い石仏が無造作に集められている。
修験道には、天台宗系の本山派と真言宗系の当山派があったが、比叡山の荘園の中に聳える三岳山は本山派だったろう。
戦国時代末期に、比叡山と信長が対立したため、比叡山と関係の深い三岳山も明智光秀の攻撃に遭い、壊滅した。
これらの石仏は、元は三岳山や山麓に祀られていた石仏だったのではないか。お堂が滅んだあと、ここに集められたのではないだろうか。もしくは、近年の道路開発などでどかされて、ここに集められたか。由来を知りたいものだ。
佐々木神社からは正面に三岳山が見える。
三岳山の山腹に、昨年末の寒波による降雪の跡が残っている。
三岳山信仰は、役行者がここを訪れ、蔵王権現を山に祀ったことに始まるとされている。
平安時代や中世、近世の山岳信仰、修験道の世界では、神仏と山は一体のものとして拝まれていた。
神仏を祀る山を駆け巡る山伏は、普段は俗世間に交じって生活していた。和光同塵の姿のようだ。
神仏習合の時代の日本は、神仏と世間が一体となった文化を形成していたものと思われる。