加藤文太郎記念図書館から東に行き、岸田川を渡ると、清富(きよどめ)の集落がある。
集落の北側にある観音山は、若き日の加藤文太郎が何度も登った山だという。
観音山の麓には、天台宗の寺院、観音山相応峰寺がある。山上には、相応峰寺の奥の院の観音堂がある。
寺の手前には、清富陣屋跡の石碑がある。
この地には、寛永四年(1627年)から寛永二十年(1643年)まで、徳川将軍の側近だった宮城主膳正豊嗣が陣屋を置いていた。
宮城主膳正は、ここを拠点に二方郡1万3千石を所領としていた。
だが豊嗣に跡継ぎがなかったため、家名は断絶し、所領は没収され、陣屋は廃絶となった。
清富陣屋跡から北に進むと、相応峰寺が見えてくる。
立派な石垣の上に寺がある。観音山には、かつて山名氏の家臣垣屋隠岐守が城を築いていた。
麓のこの寺院も、城の防御機構に組み込まれていたことだろう
山門への石段を登っていくと、新しいが立派な石造の仁王像が出迎えてくれる。
相応峰寺は、天平九年(737年)に行基によって開かれた。開山当初は、九品山極楽寺と呼ばれていた。
貞観元年(859年)に清和天皇から相応峰寺の寺号を賜って、現在まで続いている。
寺宝として、国指定重要文化財の十一面観音立像、兵庫県指定文化財の両界曼荼羅図、新温泉町指定文化財の不動明王画像、十六善神像がある。
また裏の観音山のシイの原生林も町指定文化財である。
本堂の前に至る。夏のカッとした日差しの下、蝉の声が静かに辺りを領している。
まるで浄土のような静けさだ。
寺の前には、水の神である大弁才天が祀られている。
大弁才天は、池の中に祀られているが、この池の周囲に蟹がやたらといた。思えば骨格がなく殻だけで覆われた蟹は不思議な生き物である。
この蟹は、池に生える苔をハサミでちぎっては口に運んでいた。
生命を維持するための営みには、どこかいじらしいものがある。人の営みも、苔を口に運ぶ蟹の営みと大差ないだろう。
相応峰寺の右手から、観音山への登山道が始まっている。
登山口の脇に三柱神社という社がある。
三柱神社の本殿は、丹波国氷上郡の彫刻師、中井権次一統が彫った彫刻で飾られている。
その本殿を保護するため、覆屋が掛けられている。
相変わらず中井権次一統の彫刻は素晴らしい。そしてユーモラスである。
こちらを向いた力士の彫刻が、剽軽で面白い。
今まで丹波から但馬、播磨に広がる中井権次一統の彫刻を数多く見てきたが、この三柱神社本殿と観音山にある観音堂の彫刻が、中井権次一統の作品としては最も西にある作品である。
但馬の西端にある浜坂は、歴史上戦火に見舞われたことがあまりない地域のようだ。
観音山は、古くからこの地を静かに見守ってきたことだろう。