大同寺の参拝を終え、次なる目的地に向かう。
赤淵神社の祭神は、大海龍王神、赤渕足尼神(あかぶちそこひのかみ)、表米宿祢神(ひょうまいすくねのかみ)の三神である。
赤渕足尼神は、表米宿祢神の祖神であるらしい。表米宿祢神は、但馬の豪族日下部氏の祭神とされている。越前の戦国大名朝倉氏は日下部氏の支族であるそうだ。
大化元年(645年)、表米宿祢は、丹後国白糸の浜に襲来した新羅の賊と戦った。その時、表米宿祢の乗った船が沈みそうになった。すると、海底から鮑が沢山現れて、宿祢の船を沈まないように支えた。
表米宿祢は、鮑を持ち帰って赤淵神社に祀ったとされている。大海龍王神は、鮑を使う海神とされている。
今でも赤淵神社の祭礼では鮑の神事が行われ、近隣では鮑を食べない風習があるという。
赤淵神社の楼門は、文政十三年(1830年)に建てられた。元々は、赤淵神社の神宮寺であった神渕寺の楼門であったらしい。
門は丹波柏原の彫物師・六代目中井権次橘正貞が彫った彫刻で飾られている。
楼門の二階には高欄を巡らしており、神渕寺の楼門だったころには、内部に「大般若経」が納められていたという。
楼門の龍の彫刻の背後を見ると、片隅に「彫物師丹波柏原町住人中井権次橘正貞」と彫られている。
今まで中井権次一統の作品を数々観てきたが、作者の銘を彫っているのは初めて見た。
「彫物師」という職に多大な誇りを持っていたのが伝わってくる気がする。
随身門を通り過ぎると、次に見えてくるのは勅使門である。
勅使門は、天皇の使いである勅使が潜る門で、この門がある寺社は格式が高い。
勅使門は、寛政十一年(1799年)に建てられた。円形の丸柱の前後に4本の控え柱を備えた四脚門である。
鬼瓦と棟瓦には、皇室の紋章である十六菊花弁と五七の桐の紋がある。
勅使門には、扉に鳳凰の透かし彫りが施されている。蟇股の彫刻も見事だ。勅使門の彫刻は、中井権次一統五代目の中井丈五郎橘正忠と久須善兵衛の作品だとされている。
赤淵神社勅使門は、但馬地方には珍しい江戸時代中期の建物である。朝来市指定文化財となっている。
勅使門を過ぎると、拝殿が見えてくる。
拝殿の背後にある本殿は、室町時代初期に建てられた三間社流造、杮葺きの建物である。
神社建築としては、県内最古級の建物で、国指定重要文化財となっている。
しかし、本殿は建物保護のための覆屋に覆われていて、全貌を窺うことが出来ない。
仕方が無いので、覆屋の隙間から本殿を覗き見た。
室町時代初期の建物とすると、700年近く昔の建物である。覆屋のおかげか、木材も瑞々しく残っている。
懸魚や蟇股の様式に、当時の特徴があるらしいが、観ることは出来なかった。
参拝を終えて、参道を帰ると、随身門の近くに寺院のお堂のような建物があるのが目についた。
近寄って説明板を見ると、これが元神渕寺のお堂であると分かった。
神仏習合の時代には、神社の近くに神宮寺という寺院が建てられ、神社と寺院は同体のものとして崇拝されていた。
明治の神仏分離令により、日本中の神宮寺は破壊され、仏像の多くも破壊されるか所在知れずとなった。
赤淵神社の神宮寺であった神渕寺は、お堂が現存し、説明板を見ると、伝恵心僧都作の阿弥陀如来像も残っているようだ。
日本中が寺院排斥に狂奔していたころ、赤淵神社は神渕寺を保護した。神仏分離令が赤淵神社で徹底されなかった理由は分らぬが、赤淵神社と神渕寺の間には、強い絆があったのだろう。