昨日の記事で、この地を訪れて亡くなったという伝承が残る近衛経忠について書いた。
中谷神社の西側には、近衛経忠の墓所と言い伝えられる近衛殿という一角がある。鏡野町指定史跡になっている。
近衛経忠は、近衛家の第八代当主で、乾元二年(1302年)に生まれた。
近衛家は、藤原北家の嫡流の家で、歴史上摂政関白の地位を独占した五摂家の筆頭である。五摂家とは、藤原家の中で最も栄えた藤原北家から分かれた近衛、一条、九条、鷹司、二条の五家を指す。
経忠は、後醍醐天皇の御代の元徳二年(1330年)に一度目の関白に就任した。
経忠は関白の位をすぐに下りたが、南北両朝分裂後の延元元年(1336年)に、北朝の光明天皇の下で、再度関白の宣下を受けた。
しかし、経忠は、後醍醐天皇の恩義が忘れがたく、延元二年(1337年)に京都から出奔し、南朝のある吉野に赴いた。
北朝は、経忠から関白の位を剝奪した。経忠は、南朝で左大臣に任じられた。
しかし、南朝でも志を得なかったのか、その後京都に戻った。京に戻った経忠は、当然のように北朝からは冷遇された。
正平六年(1351年)に北朝が南朝に降伏し、正平の一統が成った。しかし、一統はすぐに破談になった。
経忠は、正平の一統の破談後、北朝により京から追放され、南朝が皇居としていた賀名生(あのう)に逃れ、正平七年(1352年)に病死したとされる。
これが歴史上の経忠の経歴だが、この美作国の近衛殿内に、なぜか経忠の墓とされる塚がある。関白塚と言われている。
地元に伝わる伝承では、経忠は、花山院師賢、法大寺為忠を率いて、旧知の弘秀寺の明憲法印の下を訪ね、南朝復興を画策したが、北朝方に攻められてこの地で自刃したとされている。
関白塚の前には、経忠がその上で自刃したという腹切り岩がある。
近衛経忠は、藤原長者(藤原家一門の筆頭)の地位にあった身分の高い公卿である。武道の心得があったとも聞かない。そのような人物が、ここで自刃したという伝承には違和感を覚える。
ここからは私の推測だが、経忠が吉野にいた時、経忠は弘秀寺に密使を派遣したのではないか。北朝側がそれを察知し、密使が北朝側に襲撃され、ここで自刃したのではないか。それがいつしか、経忠がこの地にやってきたという伝承に変わっていったのではないか。
近衛殿の東側の南北道を北上すると、左手の藪の中に、経忠に従ってこの地に来たという法大寺為忠の墓とされる墓所がある。
この法大寺為忠が何者かは未詳だが、説明板に生没年と権中納言という役が書いてある。
この生没年と役職が、南北朝期の公卿、二条為忠と一致する。二条為忠も、南朝に仕えたが、後に京に戻り、北朝に仕えて権中納言になった人物である。
二条為忠が当地に来たという記録はない。
近衛殿の北側の田んぼの中に、近衛経忠と法大寺為忠の菩提を弔うためにこの地を訪れ、この地で亡くなったと地元で伝えられている藤原藤房の碑が建っている。
藤原藤房は、万里小路(までのこうじ)藤房ともいう。
藤原藤房の碑は、田の中にあり、畦道を通らないと行きつけない。私が畦道を歩いていると、田んぼで作業をしている男性から、きつい口調で「何ですか」と声をかけられた。
私は今までの史跡巡りで、通常の観光客が訪れないような場所を徘徊して、不審者に間違われたことがある。確かにこのような石碑を見に来る者がいるとは誰も思わないだろう。外から見たら不審極まりない。
私は男性に、「この碑を見に来たのです」と答えた。男性は、その後不思議なものを見るように藤房の石碑を眺めていた。
万里小路藤房は、後醍醐天皇の下で建武の新政に参加したが、建武元年(1334年)に突然出家遁世した。出家の理由は不明である。
出家後の行方も分かっていない。そのため、出家後の藤房が訪れたという伝承地は日本各地に残っている。ここもその一つである。
天皇親政に戻った建武政権の政治は、朝令暮改が多く、日本中が大混乱となった。
鎌倉幕府から取り上げられた土地を取り戻そうとする人たちの訴訟が朝廷に殺到して、処理しきれなくなった。そのため法令や勅令がころころ変わったらしい。
藤房は、「太平記」では、建武政権の間違いを後醍醐天皇に直接諫言した忠臣とされている。「太平記」はフィクションが混ざった物語なので、「太平記」中の記述が史実かどうかは分からない。
しかし出家後の行方が現代では分からなくなった藤房が、この地を訪れて経忠の菩提を弔ったというのは、ロマンのある伝説である。
田んぼの向こうに日が沈もうとしている。きつい西日が藤房の石碑を背後から照らしている。
この地に近衛経忠が来て自決し、万里小路藤房がその菩提を弔ったという伝説が生まれたのにも、何がしかの理由があったのだろう。その理由が知りたいものだ。