金剛頂寺から西に走ると、吉井川と中谷川が合流する地点に架かる葛下(くずか)橋を渡ることになる。
この辺りはかつて湯指(ゆざす)と呼ばれていた。現在の地名は、岡山県苫田郡鏡野町中谷(なかだに)である。
ここは、江戸時代から明治時代にかけて、吉井川を上下した高瀬舟の船着場の起点があった場所である。
最盛期の明治16年ころには、7~8艘の舟があったという。積み荷は、炭、薪、米などであったという。
川湊は度重なる洪水で跡形もなくなったが、今では船着場址の近くに、舟の目印になった常夜灯が再現されている。
高瀬舟は、江戸時代から明治にかけては、地域の運輸の主力であったが、鉄道や自動車の発達とともに、昭和初期には姿を消した。
この近くに、葛下城跡があるのだが、この日は桝形城跡に登った後で、かなり疲労していたので、さすがに登るのは諦めた。暑い季節に、1日2つの山城に登るのは厳しい。次回の美作の旅で登頂することにした。
ここから西に走り、中谷神社に参拝した。
中谷神社の祭神は伊邪那岐命である。神社は小高い丘の上にある。その丘を鬱蒼とした木々が覆っている。中谷神社の社叢は、樹齢の古いツクバネガシなどがあり、鏡野町指定天然記念物になっている。
両部鳥居を潜って石段を登り、拝殿に近づく。参道の両脇に聳える杉の巨木に圧倒される。
巨木の幹には、紙垂が垂れている。森林を神聖視する日本の文化が好きだ。
中谷神社には、「藤宮の鰐口」という社宝が伝わっている。元は近くの真言宗の寺院、弘秀寺が所蔵していた。
表に「百濟源治作 大願主藤宮」、裏に「文中三甲寅年(1374年)三月吉日」と刻まれているという。
南北朝時代には、南朝と北朝で別の年号が使われていた。文中は南朝の年号である。弘秀寺は、南朝方に立っていたようだ。
地元の伝承では、南朝方の前関白近衛経忠が、南朝再興を企図して、旧知である弘秀寺の住職明憲上人を頼ってこの地を訪れたとされている。
伝承では、経忠は後に北朝方の襲撃に遭い、この地で自刃して果てるが、その後南朝方の公卿藤原藤房がこの地を訪れて経忠の菩提を弔ったという。
経忠や藤房がこの地を訪れたという話は正史には見えないが、南朝の年号の刻まれた鰐口が残っているということは、この地は一時南朝方に与していたのだろう。
鰐口の大願主として刻まれた藤宮は、近衛経忠か藤原藤房ではないかと言われているが、どうも年代的に合わないようだ。
中谷神社の本殿は、伊勢神宮正殿と同じく唯一神明造である。弥生時代の高床式倉庫の形に似た唯一神明造は、日本建築の原初的な形を現代に伝えている。
地方には、過去に歴史上の著名人物が訪れたという伝承が残っていたりすることが多い。
古くは奈良時代に成立した地誌「風土記」などに、地名の由来として過去に天皇が御幸した時の逸事などを載せていることがある。
そうした伝承が歴史的事実かどうかはさて置き、何がしかの歴史的事実が形を変えて伝わってそうした伝承になった可能性はある。
地元に伝わる口伝は、ある意味噂話に近いが、何がしかの歴史的事実の残滓であるかも知れないのである。