豊岡市出石町 明治館

 辰鼓楼から西に歩いていく。うだつが上がる古い町並みが続く。

 観光客を乗せた人力車が私の前を走っている。

出石の町並みと人力車

 古い町並みと人力車。まるで明治の風景だ。ところで明治・大正時代の小説を読んでいると、車という言葉が出てくる。

 戦後の小説に車と書いてあると、ほとんどの場合自動車を指しているが、明治・大正時代は車と言えば人力車だった。

 時代時代によって、言葉の指すイメージが変わってくる。面白いものだ。

 上の写真の道を真っすぐ西に歩くと、明治館がある。明治20年に建てられた旧出石郡役所を移転改築した資料館である。兵庫県豊岡市出石町魚屋にある。

明治館

 明治館は、瓦葺き、塗り板壁の擬洋風建築である。四隅には、石造建築のコーナーストーンを模した意匠があるが、この意匠は石ではなく板で出来ている。

 この建物は、元々は、出石城の近くの谷山川沿いに建てられていた。

 建築当初は、玄関部分は二階建てで、二階はバルコニーになっていたが、現在地に移築された際に、二階部分が一階入口として利用されることになった。

明治館正面

 玄関前の4本の柱は、古代ギリシアのコリント式円柱を模している。

 明治館の内部は、出石出身の偉人のレリーフ出石焼、出石に関する資料が展示された資料館になっている。

明治館内部

 出石で有名なものには、出石蕎麦のほかに出石焼がある。

 出石焼は、出石で生産される白磁を主とした磁器である。

出石焼と原石

 江戸時代中期に、出石藩において多数の白磁の鉱脈が発見された。

 享和元年(1801年)、藩窯が開設され、出石焼の生産が本格的に始まった。最盛期は天保年間であるという。

 同じ磁器の産地、伊万里から陶工が招かれ、技術の移植が行われた。伊万里焼のような染付も行われた。

 明治に入って出石焼の品質改良が進み、世界各地の万国博覧会に出石白磁が出品されるようになった。

出石焼の大壺

籠目小鳥細工花瓶

 上の写真の籠目小鳥細工花瓶は、明治後期の作品であるが、驚くべき超絶技巧の一品だ。

 明治後期は、日本の磁器や七宝などの工芸品の技巧が世界を驚かせた。
 明治館の展示室には、出石が生んだ偉人の写真やレリーフが飾られ、その業績が紹介されている。

伊藤清

 昨日の吉祥寺の記事で紹介した伊藤清永は、出石が生んだ洋画家である。今では個人美術館が出石町内に開館している。

斎藤隆夫

 斎藤隆夫は、後日静思堂の記事で詳しく紹介するが、戦前の日本の国会で唯一軍部の横暴を糾弾する演説を行った国会議員である。

 戦後は吉田内閣、片山内閣で大臣を務めた。憲政の神様として、戦後の政治家から尊敬を受けた。

桜井勉

 桜井勉は、出石藩儒家桜井家出身の俊秀で、維新後は明治政府に仕えた。日本の天気予報の創始者とされている。

加藤弘之

 加藤弘之は、加藤弘之生家の記事で紹介したが、幕末から明治初期にかけて、日本に立憲政体と天賦人権説を紹介した学者である。

 最近日本における民主主義、世界における日本の民主主義の位置を考えるようになったが、加藤は間違いなく日本の民主主義の発展の種を撒いた人物である。

沢庵和尚

 沢庵は天正元年(1573年)に秋庭綱典の子として出石城下で生まれた。出石の臨済宗の寺院、宗鏡寺で禅門に入り、後上京した。

 慶長十二年(1607年)には、35歳で大徳寺首座となった。徳川家光が沢庵に帰依し、品川に沢庵を開山住持とする東海寺が開かれた。

 73歳で没した。

仙石政辰

 仙石政辰(せんごくまさとき)は、享保二十年(1735年)から安永八年(1779年)までの間、40年以上に渡って出石藩を治めた人物で、忠孝文武、慈愛風流を兼ね備えた不世出の名君と言われている。

 延享元年(1744年)の出石大火では、自ら鎮火活動を指揮し、延焼者246戸を救済した。明和五年(1768年)の百姓群訴では、米穀を与えて困窮を救った。安永四年(1775年)には藩校弘道館を開設し、藩士の教育に力を入れた。

 政辰が培った出石藩の教育風土が、幕末から明治にかけて、出石から多く偉人が輩出された原因だろう。

出石郡長室

 こうした郷土の偉人たちを見ると、郷土や国を愛して、郷土や国をどのようにしたいか明確なビジョンを持って、実行した者が歴史に名を遺すようだ。

 自分の出身母体を愛し、出身母体に希望を持ち、前向きに進んでいく者が増えれば、母体は希望に満ちたものになる。教育の役割は、そういう人物を育てることにあるのだろう。