加藤文太郎記念図書館

 浜坂先人記念館「以命亭」の東隣には、用水路を挟んで加藤文太郎記念図書館が建っている。

 通常の図書館の中に、浜坂町出身の登山家加藤文太郎の記念室が設置されている。

加藤文太郎記念図書館

 記念室内には、山や登山に関する書籍が開架公開されている。

 これほど山岳関係の書籍が充実している図書館は、そうないのではないか。

 加藤文太郎は、新田次郎の小説「孤高の人」のモデルとなった登山家である。

加藤文太郎

 加藤は明治38年に漁師の四男として浜坂に生まれた。

 浜坂尋常高等小学校高等科を卒業後、神戸市にある三菱内燃機製作所に就職し、設計技師として稼働した。

 その一方、兵庫県立工業学校や神戸工業高等専修学校に通い、技能の向上に努めた。

図書館2階の加藤文太郎の記念室入口

加藤文太郎

 大正10年に三菱内燃機製作所内の登山クラブ、デテイル会に入会し、山歩きの楽しさに開眼した加藤は、大正14年には須磨から宝塚までの六甲山全山縦走に1人で挑戦した。何と往復100キロメートルを1日で往復したという。

 これが加藤の単独登山家としてのキャリアの始まりであった。

記念室内の山に関する図書

 加藤が単独行を志した理由は2つある。1つは加藤が人一倍歩く速度が速かったということだ。クマが山を登っているのと見間違える程の速さだったという。

 一緒に歩く人に気兼ねした加藤は、単独行を選んだ。

 もう1つの理由は、金銭的なものである。当時の登山は、時間と金銭に余裕のある人が、高価な装具を身にまとい、案内人と荷物持ちを雇って楽しむ高級スポーツだった。

加藤に関する著作

 そんな余裕のない加藤は、あり合わせの服に地下足袋を履き、自ら大きなリュックを背負った。金銭的余裕のある同時代の登山家とは、同行出来なかったのだろう。

 当時の山岳界では、単独行はタブーとされていたという。だが加藤は世間の目を気にせず、1人で大好きな山に出かけた。

 さて、数年夏山で訓練を重ねた加藤は、昭和3年2月、23歳の時に但馬の鉢伏山から氷ノ山までの冬山単独登頂に成功する。

新田次郎が昭和39年から雑誌「山と渓谷」に連載した「孤高の人

 この成功を皮切りに、加藤は毎年積雪期の日本アルプスの山々に単独で挑み、踏破した。

 昭和4年の槍ヶ岳冬季単独登山の達成は世間を驚かせ、「単独登攀の加藤」「不死身の加藤」と呼ばれた。

昭和5年に加藤が撮影した奥穂高岳から望んだジャンダルムの写真

 また加藤は、大正から昭和初期にかけて、当時の登山家としては珍しく、多くの山岳写真を残している。

 単独登山をしていたため、実際に登った証拠として撮影したのではないかとも言われている。

加藤愛用のカメラ

 やがて単独での登山に限界を感じ始めた加藤は、昭和11年1月3日、山仲間の吉田富久と共に槍ヶ岳北鎌尾根に挑んだが、猛吹雪に遭い消息を絶った。まだ31歳だった。

 春が訪れ、雪が溶けだしてから、ようやく加藤の遺体は発見された。

当時の新聞

 見つかった加藤の遺体の脇には、死を悟った加藤が目印に立てたかのように、ピッケルが立ててあったという。

加藤愛用のピッケル

加藤愛用の登山靴

加藤愛用のストック

 私は、この記念図書館を訪れて、初めて加藤文太郎という人がいたことを知った。そして甚だ感動した。

 登山の好きな私の職場の同僚が、登山の魅力についてこう語っていた。「尾根を歩いていて滑落して死んでも自分1人の責任、自分の責任で自分の体一つで冒険するのがいい」と。なるほど、自分の運命を自分が握っているというのは、いいものだ。

 後世に名を残す人は、一つのことをとことんまでやり切った人である。

 加藤文太郎は、単独登山を志す人にとって、山道の先を照らす光明のような人である。