湊川神社の参拝を終え、東に向かって歩き始めた。
しばらく東に歩くと、神戸を代表する商店街、元町商店街の入口がある。
その手前に、西元町きらら広場という広場があり、兵庫県里程元標という標柱が建っている。地名で言えば、神戸市中央区相生町1丁目になる。
里程元標とは、そこから県境まで何里あるかを記載した標柱のことで、旅の目印になるものである。
兵庫県里程元標の下部には、「神戸市相生橋西詰」と彫られている。
明治6年に初代の兵庫県里程元標がここから少し北にあった相生橋の西詰に建てられ、明治43年に二代目のこの元標に建て替えられた。
昭和6年に国鉄の高架化に伴い相生橋がなくなると、元標の設置場所は転々とすることになり、昭和35年に湊川神社正門の東側に移された。
平成16年に、西元町きらら広場の整備に伴い、現在地に移された。
元標の北面には、ここから東にある御影標柱までの距離と、兵庫県ー大阪府の管轄界にある標柱までの距離が刻まれ、南面には、ここから西にある明石標柱までの距離と、兵庫県ー岡山県、兵庫県ー鳥取県の管轄界にある標柱までの距離が刻まれている。
日本初の鉄道、新橋横浜間の開通は明治5年である。最初の標柱が建った明治6年には、まだまだ旅の主力は徒歩だったろう。徒歩の旅人にとって、街道沿いに建つ里程元標は、旅の情報源になったことだろう。
この兵庫県里程元標から南東に約100メートル歩くと、神戸中央郵便局があるが、郵便局の西側に建つ高層マンションのあたりは、かつて日本一の総合商社だった鈴木商店の本店があった場所である。
マンション前の歩道上には、鈴木商店本店跡地であることを示す石碑が建っている。
鈴木商店は、明治7年に鈴木岩治郎によって、神戸弁天浜に洋糖取引商として創業された。
明治27年、岩治郎の跡を継いだ鈴木よねと大番頭・金子直吉は、次々に製造業を起業し、貿易立国日本の礎を作り、神戸港と神戸の産業の発展に寄与した。
この地には、明治大正期に活躍した関西建築界の長老、河合浩蔵が設計した「みかどホテル」が建っていたが、鈴木商店が建物を譲り受け、本店として使用した。
大正時代になると、金子の第一次世界大戦中の積極策が当り、鈴木商店は日本一の総合商社に発展する。
鈴木商店は、砂糖の生産販売で財を成したため、砂糖の生産地の台湾との関係が深かった。鈴木商店の取引相手だった台湾銀行は、鈴木商店への貸し付けを絞り始めた。
昭和2年、鈴木商店は倒産し、貸し付けをしていた台湾銀行も破産に瀕した。それに連鎖して日本中の銀行が休業に追い込まれ、金融恐慌が発生した。
これにより、日本経済は傾き、国民生活は苦しいものになった。資源と食料の生産地として脚光を浴びていた満州が、日本の生命線だという世論が形成されていくことになる。
さて、ここから元町商店街の西の入口に戻る。
元町商店街は、神戸大丸前からJR神戸駅まで連なるアーケード街である。賑わいは、三宮センター街の方が上だろうが、商店街としての歴史はこちらの方が古い。
元町商店街は、江戸時代の西国街道にあたる。明治時代に、国鉄神戸駅と外国人居留地を結ぶ西国街道沿いに商店が立ち並び、今の元町商店街の原型が出来た。
なので、元町商店街は、神戸市内でも老舗が多い商店街である。
元町商店街には、港町神戸を思わせる店が多い。明治大正期からの老舗があり、船乗りが訪れ、異国情緒のある神戸元町は、散策して楽しい街である。
元町通6丁目には、瓦せんべいで有名な、明治6年創業の亀井堂総本店がある。
元町通には、1丁目から6丁目まであり、それぞれの街路灯のデザインに違いがある。
元町通5丁目の南側には、菅原道真公を祀る走水(はしうど)神社がある。
走水神社は、菅原道真公が大宰府に流された際に、立ち寄って住民と交流した旧跡地に建つとされている。
この辺りは、昔は走水村と呼ばれた。近くの宇治川が氾濫するたびに、河水が渦を作って流れた。その渦が「走り渦」と呼ばれたことから、走水(はしうど)村という地名になったと言われている。
走水神社は、かつては天満宮と呼ばれていたが、明治8年に元町通の北側にあった八幡神社が合祀され、その際に今の名称になった。
走水神社は、昭和20年の神戸大空襲で焼失したが、昭和33年に再建された。今の社殿もその時のものである。
境内には、鮮やかな走水稲荷大明神もあった。
お稲荷さんの赤い鳥居や赤い社殿は、不思議とマンションや高層ビルの中にあってもアクセントになって映える。
土俗的なお稲荷さんの社殿が、都市部にある風景は、むしろ近未来的だ。
神戸市は、かつては東京、横浜、大阪、名古屋に次いで全国5位の人口を誇る都市だったが、ここ最近は、全国の政令指定都市の中でも人口の減少幅が大きく、札幌、福岡、川崎に人口規模で抜かれてしまった。
兵庫県民としては、神戸の衰退は残念なことだが、都市の魅力は人口規模だけでは計れない。
当ブログでも、史跡を通じて神戸の魅力を伝えることが出来たら幸いだと思う。