黒沢山萬福寺から下りて南に車を走らせる。津山市二宮にある高野(たかの)神社を訪れた。
高野神社は、美作国の二宮である。美作国では、一宮の中山神社に次ぐ社格の神社である。
創建は第27代安閑天皇二年(534年)とされている。となると、中山神社より古い神社である。
神社の鳥居を潜ると、目の前に樹齢約700年のムクノキがある。
かつてこの辺りは、木が鬱蒼と茂る宇那提(うなて)の森と呼ばれていた。
宇那提の森は、古来から「万葉集」に収録された歌を始め、様々な歌に詠まれた歌枕である。
「万葉集」巻七第1344番には、
真鳥住む 雲梯(うなて)の社(もり)の 菅の根を 衣(きぬ)にかき付け 着せむ子もがも
とある。
真鳥は鷲のことで、鳥の中の鳥とされるから真鳥と言う。その恐ろしい鷲の住む雲梯の社は、霊威のある神社のことを指す。
霊威ある雲梯の社に生えている菅の根を、私の衣に描き付けて(堅い契りの証)、着せてくれる女がいないものか、という歌意らしい。
また、「万葉集」巻十二第3100番には、
思はぬを 思ふと言はば 真鳥住む 雲梯の社の 神し知らさむ
という歌がある。
思ってもいないのに、思っていると嘘を言えば、鷲の住む雲梯の社の神様が、恐ろしさを知らしめる(祟る)だろう、という歌意だ。
古くから、雲梯(宇那提)の社(森)は、奈良県橿原市雲梯町にある河俣神社のことを指すとされてきた。
しかし中世に順徳天皇が著した歌論「八雲御抄」で、初めて雲梯の社美作説が唱えられた。
貞享五年(1689年)、津山藩の家老長尾隼人が、ここを歌枕の宇那提の森だとした石碑を建てて、顕彰した。
私は長尾隼人が建てた石碑を意識して写さなかったが、上の写真の端にその石碑が写りこんでいる。
宇那提の森は、宇喜多直家が堡塁を築く際に、このムクノキ1本を残して伐採されてしまったという。
さて、高野神社の参道は長く、参道沿いには商店などもある。
当日は、参道沿いに桜が咲いていた。
参道沿い北側に、江戸時代の大庄屋立石家の邸がある。
立石邸に至る上り坂の手前には、立石岐(ちまた)の顕彰碑が建っている。
立石岐は、弘化四年(1847年)に生まれ、19歳で大庄屋の立石正介の養子となった。
岐は、明治11年(1878年)に養蚕業を推進普及するために有志と共に共之社を設立した。翌明治12年には、岡山県会議員に当選した。
岐は、自由民権運動に身を挺し、有志と共に国会開設の建白書を元老院に提出した。
今では当たり前のようにある国会も、大日本帝国憲法が成立するまでは存在しなかった。
明治の自由民権運動は、国民の意見を国政に反映させるため、議会の開設を国に求め続けた運動であった。
面白いのは、国会が出来る前に、県議会が存在していたことである。民主化は草の根から始まるということだろうか。
明治23年(1890年)、大日本帝国憲法が発布され、アジア初の国会が誕生した。岐は衆議院議員になった。
大日本帝国憲法下の議会の力は脆弱だったが、当時の議会が現代の我が国の議会政治の基礎となったことは確かである。
民権を求め続けた先人達の苦労に頭が下がる。
さて、高野神社の随身門は、建久二年(1191年)に建立されたものだという。今は、その周囲を安政二年(1855年)に建てられた覆屋が覆って保護している。
この随身門には、阿形と吽形の木造随身立像が立っていた。像には、応保二年(1162年)の胎内銘があり、銘がある随身像としては国内最古のものであるそうだ。
また、随身門には、寛弘六年(1009年)に三蹟の一人藤原行成が書いた木造神号額が掛かっていた。
木造随身立像と木造神号額は、国指定重要文化財として、今は宝物館に収められている。
宝物館には、他に平安時代に作られた木製の狛犬である木造獅子2体が収められている。これも国指定重要文化財である。
宝物館の隣にある津山だんじり館には、津山祭りで氏子に曳かれるだんじりが展示してあった。
津山だんじりは、神輿の渡御に随伴するが、四輪のゴムタイヤが付いた台車に載り、ハンドルで方向を変えるようになっている。近代化されただんじりである。
高野神社の本殿は、寛文三年(1663年)に二代目藩主の森長継が造営したものである。
これで私は、徳守神社、鶴山八幡宮、美作総社宮、中山神社、高野神社と、中山造の本殿を有する五社の全てに参拝したことになる。
ところで高野神社の御祭神は、彦波限鵜葺草葺不合尊(ひこなぎさうがやふきあえずのみこと)である。
彦波限鵜葺草葺不合尊は、宮崎県の鵜戸神宮の御祭神として知られるが、初代神武天皇の父神である。
神武天皇の父親が、何故ここに祭られているのかは分からない。
本殿の脇には、我が国の悠久を現わすさざれ石が置かれている。
今上陛下の生誕を記念して置かれたものだろう。
境内には、美作出身の幕末の国学者・歌人の平賀元義の歌碑があった。
歌碑には、「ひとりのみ 見ればさぶしも 美作や うなでのもりの 山ざくら花」と刻まれている。
平賀元義も、宇那提の森が地元美作にあったという説に与していたようだ。
平賀元義が高野神社を訪れた幕末には、もう宇那提の森はなくなって、あのムクノキだけがあった筈だ。
平賀元義の歌は、「万葉集」を思わせる万葉調と呼ばれるもので、後に正岡子規が評価した。
元義は、今と変わらぬ高野神社境内に立って、木が鬱蒼と茂った「万葉集」の時代の宇那提の森に思いを馳せながら、この歌を作ったことだろう。