中山神社

 美作国一宮である中山神社を訪れた。中山神社は、岡山県津山市一宮にある。

 一宮には、その国で最も社格が高い神社が当てられていることが多い。中山神社は、近代社格制度の下では、国幣中社であった。

 私が史跡巡りで訪れた一宮としては、播磨国一宮の伊和神社に次いで2番目になる。約2年史跡巡りをして、まだ二社目だが、備前と淡路の一宮は、間もなく訪れる予定である。

 中山神社の社頭には、樹齢約800年のケヤキがある。

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中山神社ケヤキ

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 中山神社の現在の社殿は、永禄二年(1559年)に再建されたものである。このケヤキは、それ以前からここにあったものである。
 ケヤキの前の小さな祠には、大国主命が祀られている。このケヤキは、津山市指定天然記念物である。

 中山神社の創建は、社伝では慶雲四年(707年)とされている。

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中山神社の鳥居

 中山神社は、平安時代に成立した「日本三代実録」や「延喜式」にも記載がある神社で、美作で唯一、名神大社に列せられた。

 鳥居の裏手に、これまた大きい樹齢約500年のムクノキがある。

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中山神社のムクノキ

 このムクノキは、現本殿が再建されたのとほぼ同じ時代に生まれたことになる。

 参道を進むと、尻を持ち上げた狛犬や、とぼけた顔の狛犬がいる。

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尻を上げた狛犬

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とぼけた狛犬

 中山神社神門は、元々津山城二ノ丸にあった四脚門で、津山城が廃城となった後の明治7年(1874年)に中山神社に移築された。

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神門

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 本柱2本と控柱2本から成る薬医門形式で、屋根は切妻造、檜皮葺である。いかにも城門というような装飾のない無骨な門で、雄勁なる中山神社に相応しい門である。

 神門は津山市指定重要文化財である。

 神門を潜ると、正面に中山神社の社殿が見えるが、神門を潜って左手に神楽殿と惣神殿がある。

 惣神殿は、津山市指定重要文化財だが、私が訪れた時は修理中であった。

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楽殿

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修復工事中の惣神殿

 中山神社の祭神は、鏡作神とされている。この鏡作神は、鏡作部と呼ばれる鏡を作った職能集団の祖神とされているが、それ以外のことはあまりよく分かっていない。

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中門と社殿

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中門

 中門を潜ると、翼を広げたように檜皮葺の屋根を広げた拝殿がある。

 丁度神職祝詞を上げて祈祷する最中だった。

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拝殿

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拝殿の向拝

 中山神社の社殿は、天文二年(1533年)の尼子晴久の美作攻めの際に、戦火で焼けてしまった。

 境内に陣取った敵を攻略するため火が放たれたという。

 尼子晴久が美作を平定した後の永禄二年(1559年)に、その晴久の手によって再建された。

 本殿は、入母屋造に唐破風の向拝がついた中山造という独特の様式で、他の津山市内の主要神社も、この中山神社本殿と同じ中山造で建てられている。

 この本殿は、国指定重要文化財である。

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本殿

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本殿の虹梁、蟇股、木鼻の彫刻

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本殿回廊の彫刻

 中山神社本殿は、津山市内の中山造の本殿の中では最も古く、木材も寂びたいい色になっている。

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本殿

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 檜皮葺の屋根の四隅が跳ね上がった姿は、武人のように凛とした姿だ。くすんだ木材の色が美しい。

 古武士のような風格ある建物である。

 中山神社を焼き払った尼子晴久も、自己の行いに罪悪感を覚えたのだろうか。立派な本殿を再建したものだ。

 中山神社には、弘安八年(1285年)に一遍上人が訪れたそうだ。「一遍上人絵伝」に記載があるという。

 また、「古今和歌集」に出てくる「吉備の中山」は、備中の吉備津神社ではなくこの中山神社とする説があるそうだ。

 なかなか由緒ある古社である。

 さて、中山神社本殿奥の崖下に、猿神社という小さな祠がある。

 この祠に祭られる猿神のことは、平安時代に編集された説話集の「今昔物語集」本朝世俗部巻第二十六第七「美作の国の神、猟師の謀(はかりごと)に依りて生贄を止むる語(こと)」という説話に紹介されている。

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猿神社

 昔、中山神社の祭神は猿の姿をしていた。地元では、毎年猿神に若い未婚の女性を生贄として捧げていた。

 この年の生贄に、美しい十六、七歳の娘が当たっていた。娘の父母は、生贄の日が近づくにつれ、娘の死を避けることが出来ないと嘆き悲しんだ。

 そこに、東国から、猟犬を連れて猟をする勇敢な男が現れた。男は娘と両親の様子を見て事情を知り哀れに思った。

 男は、両親に「私に考えがある」と言って、娘を助けることを約束した。そして人知れず娘と婚姻した。

 男は山から密かに猿を捕えてきて、連れてきた二匹の犬にこれを食い殺させる訓練を行った。

 生贄を捧げる日、娘に代わって男が犬二匹と一緒に生贄を入れるべき長櫃に潜り込んだ。

 宮司らは生贄が入っているものと思い、運んだ長櫃を社に置いて立ち去った。男が長櫃をわずかに開けると、隙間からすぐ横にいる大きな猿が見え、その左右に百匹ばかりの猿が並んで叫びののしっているのが分かった。

 大猿や猿たちが長櫃を開けると同時に、長櫃から犬が飛び出て猿の群れに襲い掛かり、次々にかみ殺した。

 男は刀を抜いて大猿を組み伏せ、首に刃を当てて、「お前の首を叩き切って犬に食わせるぞ。お前が神なら俺を殺してみろ」と脅した。

 大猿は宮司に憑依して、宮司の口を借りて、もう二度と生贄を取ることはせず、人に危害は加えないと誓約し、命乞いをした。

 男は大猿を許し、野に放った。大猿は山に逃げ帰ったが、それから生贄の習慣はなくなったという。男は家に帰り、娘と末永く夫婦として幸せに過ごしたそうだ。

 この話、最後に猿が許されて逃げるところを除けば、「古事記」の須佐之男命とヤマタノオロチの伝説と話の構図がほぼ同じである。

 中山神社周辺に出没した猿を猟師が退治したという話が、このような説話になったのだろうか。

 命乞いをした猿神は、今は心を入れ替えて、この小さな祠にいながら美作の住民を見守っていることだろう。

 古い社は、氏子に敬われて、様々な伝説を紡ぎながら、時を越えて続いていくものである。