高野神社の参拝を終え、国道179号線を挟んで北側にある美和山古墳群を訪れた。ここも津山市二宮になる。
美和山古墳群は、国指定史跡で、4~5世紀に築かれた古墳群とされている。
前方後円墳の1号墳と、円墳の2、3、6号墳の4つの古墳がある。
公衆トイレのある小さな駐車スペースがあったので、そこに車をとめて見学した。
まず目の前に現れるのは、蛇塚と呼ばれる2号墳である。
2号墳は、直径約34メートル、高さ約7メートルの円墳で、二段に築成されている。墳頂は平になっていて、蛇塚と刻まれた石碑が立っている。
2号墳からは、円筒形埴輪の破片が発掘された。この円墳がなぜ蛇塚と呼ばれるのかは分からない。
2号墳の南側には、耳塚と呼ばれる3号墳がある。
3号墳も、二段に築成された円墳で、直径約38メートル、高さ約5メートルの大きさだ。
墳丘を登ると、ところどころに葺石が顔を出している。
築成されたころは、このような丸い川原石でびっしり葺かれていたことだろう。3号墳からも、円筒形埴輪の破片が出土している。当初は墳頂の周囲を円筒形埴輪が囲んでいたことものと思われる。
2号墳の北側には、直径約17メートルの6号墳がある。
小さな古墳であるため、1号墳の陪塚だと思われる。
さて、美和山古墳群のハイライトは、前方後円墳の1号墳である。胴塚とも呼ばれている。
1号墳は、全長約80メートルの前方後円墳だが、奈良県天理市柳本にある行燈山古墳(崇神天皇陵)と形が同一で、行燈山古墳の3分の1の大きさの類型墳とされている。
行燈山古墳は、4世紀前半の築造である。その類型墳がこの地に作られたということは、行燈山古墳が作られてすぐ後にこの地が大和王権の勢力下に入ったということだろう。
そしてこの古墳が特徴的なのは、戦国時代の15~16世紀に美和山城という城郭として使われたことである。
城主は立石氏という国人であったそうだ。昨日紹介した立石岐の先祖だろう。
見取図のとおり、前方部と後円部の先に土塁が付けられている。古墳であると同時に城跡であるという史跡には、初めて出会った。
しかし古墳自体がそれほど大きくなく、土塁もささやかで、堀の跡もないため、然程防御力のない小さな砦のようなものだったろう。
それにしても素晴らしいのは、1号墳周辺の雑草が良く刈られていて、墳丘の姿をよく眺めることが出来ることである。
多くの古墳は、藪や樹木に覆われて、形を認識することが出来ない。たまにこのような明瞭に形を認識できる古墳に出会うと嬉しくなる。
墳丘上に上ると、後円部の形を明瞭に見てとることが出来る。
後円部は前方部より少し高くなっている。後円部の高さは約9メートルだ。後円部の上には、戦国時代には櫓が建っていたことだろう。
今でも、後円部に立つと、四囲を見渡すことが出来る。
1号墳の北側には、紫竹川という川が流れている。川から古墳までは斜面になっていて、天然の要害のようになっている。
後円部から前方部を見下ろすと、これまた明瞭な前方部を眺めることが出来る。
前方部の先端に、もう一つの土塁が付いている。
この小さな土塁がどれだけの防御力を発揮できたか分からない。
美和山城は、文亀二年(1502年)に美作三星城の後藤氏に攻められ落城したそうだ。
三星城と後藤氏については、令和元年12月27日の「三星城跡 吉田の油地蔵」の記事で紹介した。後藤氏も最後は宇喜多直家に滅ぼされる。
戦国時代の人達が、この前方後円墳を見て、何を思いながら城に改造したか興味深いところだ。古代の有力者の墓だという認識はなかっただろう。
史跡も時代の推移と共に改造を加えられ、他の目的で使われることがある。
それはそれで、人間が目まぐるしく活動している証なので、非難されるべきことではない。
そういう史跡を見ると、人間の逞しさを感じることが出来る。