若桜町屋堂羅(やだら)には、若桜町の歴史に関する資料を展示する若桜町歴史民俗資料館がある。
その隣には、元禄七年(1694年)に築造された三百田(さんびゃくだ)氏住宅が建っている。
三百田氏住宅は、元々は不動院岩屋堂前を流れる吉川川を、上流に約4キロメートル遡ったところにある吉川集落にあった庄屋の家である。
三百田氏住宅は、昭和58年に若桜町に寄贈され、平成5年にこの地に移築された。その際元禄七年建設当時の姿に復元された。
立派な茅葺の屋根を持つ、入母屋造の民家で、奥行四間、間口八間のいわゆる「四八の家」である。
元禄時代の山間の農村に建つ家としては、相当立派なものなのではないか。縁側も当時としては贅沢なものだろう。
三百田氏住宅の土間には、蓑や「ふんごみ」と呼ばれる履物が展示されている。
蓑は現代でいう雨合羽で、当時は雨が降れば笠を被り蓑を羽織って雨をしのいだ。「ふんごみ」は、雪国で冬に履かれた履物で、当時の冬季用の長靴だろう。雨や雪が降る因幡山間部の当時の農村生活が目に浮かぶ。
囲炉裏のある居間は、天井が高く太い梁が交錯している。神棚も黒ずんで、元禄時代から使われ続けた風格を表している。
客間と思われる座敷は、縁側を控えていて、庭を眺めることが出来ただろう。
座敷の天井板は黒ずんでいて、実にいい味を出している。
豪華な宮殿のような家より、こういう家の方が好感が持てる。年と共に、渋好みになってくるものだ。
さて、三百田氏住宅の隣にある若桜町歴史民俗資料館は、合資会社若桜銀行の建物として、明治40年に若桜の町の中心部に建てられたものである。
平入の本屋の上に、入母屋造の屋根と虫籠窓を有する二階が載り、ナマコ壁をあしらった妻入りの土蔵が一体となっている。
屋根に載るのは、茶色の石州瓦である。
建物の持ち主はその後変転し、最後は山陰合同銀行若桜支店の建物として使用されたが、昭和56年に同支店が建物を建て替えることになった。
若桜町が建物を譲り受け、この地に移転させた。
資料館に入ると、内部は現代の銀行のイメージでは想像できない座敷のある空間であった。
柱や梁には銘木が使われている。当時の建築家が誇りを賭けて建てたものだろう。
座敷に置かれた文机の上には、算盤と帳面と秤が置いてある。この建物が建てられた当時の日本は金本位制だったから、銀行には金を置いていて、お客が紙幣を金と交換するように求めてきたら、レートに基づいて交換していたことだろう。秤は金などの重さを量るためのものだろう。
秤で金を量り、算盤で計算し、帳面に筆で記録をつけた明治の世の銀行の仕事が思い浮かぶ。
館内には、若桜鬼ヶ城の瓦などが展示されているが、次回の鬼ヶ城の記事で紹介しようと思う。
資料館の建物には蔵があるが、銀行の時代には、金銀や現金をこの蔵の中に置いていたことだろう。
今は蔵の中に、甲冑が展示してある。
館には、第68、69代内閣総理大臣を務めた大平正芳の「玉不磨無光」の書が掛けられている。
大平総理は、私が物心ついてから初めて記憶した総理大臣の名である。「玉ハ磨カ不ンバ光ルコト無シ」とでも読み下すか。身につまされる言葉だ。
館の2階の虫籠窓の部屋には、昔の生活用具などが置かれていた。
館の奥には、床の間のついた座敷がある。脇床の違い棚などに、年輪が美しく浮き出た銘木が使われていた。
現代の日本の一般住宅では、柱や梁はほとんど壁の中に隠れていて、敢えて表に出すことはない。
昔の日本建築は、柱や梁に銘木を用いて、それが目立つように建物を建てた。
そんな時代の建築作業は、さぞ楽しかっただろう。
三百田氏住宅は300年以上前の、若桜町歴史民俗資料館は100年以上前の建物だ。たった100年の間にも住宅事情は大きく変わる。
今から100年後の建物はどうなっているのか、興味を覚える。