若桜の町の背後に聳える鶴尾山は、別名鬼山と言う。若桜町歴史民俗資料館から、その全貌を視界に収めることが出来る。
財団法人日本城郭協会は、日本100名城、続日本100名城を指定している。
今までのブログ記事では触れてこなかったが、当ブログで紹介した赤穂城、姫路城、明石城、津山城が日本100名城に入っていた。
今後の史跡巡りで、日本100名城と続日本100名城も次々と「陥落」させていくことになるだろう。
鬼山には、麓から登る方法もあるが、山上まで車で行く方法もある。私は車で山上まで上がった。
山上に駐車場があるが、この駐車場自体がかつての馬場の跡である。
駐車場に城の案内板があるが、その隣に「クマ注意」の看板があった。最近この駐車場でクマの糞が見つかったようだ。
昨年12月13日の「天神山城跡 前編」の記事で、姿の見えぬクマらしき動物に接近されたことを書いたが、今後史跡巡りを続けるていく過程で、クマと遭遇する可能性が十分ある。クマ対策をしていく必要がある。
駐車場から本丸までは歩いてすぐである。鬼山の標高は435メートルであった。
本丸、二の丸方面に歩いて行くと、大きな堀切があった。
ところで鬼ヶ城がいつ築城されたかはよく分かっていない。
室町時代中期の延徳元年(1489年)には、国人の矢部氏が矢部館を構えていたという記録がある。
その後、天正三年(1575年)に山中鹿之助が、尼子勝久とともに鬼ヶ城に入城し、毛利勢を撃退した。
秀吉の鳥取攻めでは、織田軍の拠点となった。
鳥取城落城後の天正九年(1581年)には、豊臣方の武将木下重賢が入城し、関ヶ原戦後の慶長六年(1601年)には、山崎家盛が入城している。
山頂付近に石垣と天守を築き、鬼ヶ城を近世の城郭に仕立てたのは山崎家盛のようだ。
その後元和三年(1617年)に池田光政が因幡伯耆を領有することになったが、幕府の一国一城令により鬼ヶ城を廃城とした。
しばらく歩くと、ホウヅキ段と呼ばれる曲輪の石垣が見えてくる。
見上げれば、本丸の石垣が見える。
しばらく歩くと、開けた場所に出た。二の丸である。
二の丸からは、若桜から鳥取方面へ至る平野部を眺めることが出来る。
二の丸からは、かつての鬼ヶ城の瓦が発掘された。それらの遺物は、今は若桜町歴史民俗資料館に展示されている。
二の丸からは、本丸の石垣を眺めることが出来る。池田氏によって廃城にされる際、石垣も崩されたようだ。
崩れた石垣が、余計に想像力をかきたててくれる。
本丸の石垣を登っていくと、天守台の石垣がある。
天守台からは、播磨方面と但馬方面に向かう道をはっきりと目視することができる。
右側の平地が播磨方面に向かう街道で、左側の平地が但馬方面に向かう街道である。但馬方面に向かう道は、一昨日の記事で紹介した伊勢道である。
先ほど二の丸から鳥取方面に向かう平地を紹介したが、この若桜鬼ヶ城からは、播磨、但馬、鳥取方面を同時に見張ることが出来るのである。ここは交通の要衝であった。
さて、本丸から北西方向に少し下山すると、曲輪の跡の六角石垣がある。
曲輪を六角形に囲むように石垣が築かれているので、この名がある。
六角石垣は、山頂の城郭遺構よりも古い時代に築かれたものだそうだ。ここは廃城された時に石垣が崩されず、ほぼ当時のまま現存している。
石垣が好きな方からすれば、若桜鬼ヶ城跡のハイライトは、本丸よりもむしろこちらかも知れない。
日本には、戦国時代以前の古い城跡が沢山あるが、建物自体が残っているものはない。
日本の現存天守で最も古いものは、16世紀末から17世紀初頭のもので、秀吉の天下統一以前の天守で現存するものはない。
崩れた石垣に、戦乱期から徳川時代に移り、「戦う城」の必要がなくなった時代の趨勢を感じる。