岡山県瀬戸内市牛窓町牛窓から眺められる海は、日本のエーゲ海と呼ばれている。明るい陽光の下、波穏やかな瀬戸内海に、大小さまざまな島々が浮かぶ姿は、さもありなん、といったところだ。
牛窓は、古くから瀬戸内海航路の良港として知られている。
牛窓町牛窓にある牛窓神社は、潮騒の音が聞こえる海沿いの神社である。
鳥居は、天保二年(1831年)に建てられたものである。海沿いに建つ鳥居というものは、何でこうも清々しいのだろう。神々の息吹に触れているようだ。
鳥居を潜ると、約800メートルの石段が続く。社殿は小高い丘の上にある。
参道に入ってすぐ右手に、万葉歌碑がある。柿本人麻呂が歌ったと伝わる、「万葉集」巻第十一、2731番の、
牛窓の 浪の潮さゐ 島響(とよ)み 寄さえし君に 逢はずかもあらむ
という歌が刻まれている。
歌意は、「牛窓の潮騒が島を響かせるように、噂高く私に言い寄るあなたに逢わないでいられようか」というものである。
歌碑から眺める海は、まさに万葉歌の世界である。
牛窓神社の創建は古い。社伝によれば、長和年間(1012~1017年)に、教円大徳により、ご神体が宇佐八幡宮から勧請されたという。
祭神は、神功皇后、応神天皇、武内宿禰命、比売大神他数柱の神々である。
神功皇后が朝鮮征伐の際に当地に立ち寄ったゆかりがあるのだろう。
長い石段を上ると、随身門が見えてくる。
随身門を入ると、いよいよ神域である。
牛窓神社の拝殿は、絵馬が多数奉納されている。拝殿の床には畳が敷かれ、上がって絵馬を拝むことができる。
奉納されている絵馬を観ると、この神社が地元から愛されているのが分かる。
牛窓神社には、文政十三年(1830年)作の「おかげ参りの図」があって、岡山県指定重要有形民俗文化財となっている。文政十三年に起こった全国最大規模の伊勢参り道中風俗が克明に描かれた珠玉の絵馬であるらしい。
本殿は檜皮葺で、千鳥破風付きの入母屋造りであり、向拝に唐破風が付いている。
備前国邑久郡の宮大工田渕市左衛門、嘉一兵衛父子が築いたものである。小さいながら、鳥が羽根を広げて今にも羽搏くような、総欅造りの堂々たる建物だ。
牛窓神社から南へ、港町の細い路地を抜けていくと、五香宮がある。
石段を上がると、鉄筋コンクリート製の塀で囲まれた社殿がある。
往古、神功皇后が朝鮮征伐の折に当地に立ち寄り、住吉三神を奉斎した場所と伝えられる。江戸時代に一度破却され、京都伏見の御香宮から祭神神功皇后と応神天皇を勧請し、社名を変えたと言われている。
現在の社殿は、大正7年に建築されたもので、銅板葺きの神明造りである。
白木で築かれた清楚な社殿である。この高台からは海を眺めることができる。
五香宮には、神功皇后が着用したとされる岡山県指定文化財の黒韋威(くろかわおどし)鎧大袖付が社宝となっている。実際は中世の鎧である。
ほかに、馬の額を飾った面繋(おもがい)4面がある。これも岡山県指定文化財である。中世以前の貴重な馬具だそうだ。
五香宮の前には、海に面して瀬戸内市指定史跡の牛窓燈籠堂跡がある。
牛窓燈籠堂は、瀬戸内海沖の船舶の航行が頻繁となった延宝年間(1673~1681年)に、夜間通航の標識として、岡山藩主池田綱政の命で築かれた。
割石積の基壇の上に、木造の燈籠堂を建てたものである。燈籠堂は明治維新後に取り壊されたが、昭和63年に現在の燈籠堂が復元された。
備前藩が同時期に築いた4つの燈籠堂のうち、完全に残るものは、牛窓のものと、日生町の大多府島のものだけであるという。
この割石積は、閑谷学校の石塀や、大多府島の元禄防波堤と同じく、岡山藩の土木工事家津田永忠の手によるものだろう。
私には昔から、海が輝く町に住みたいという夢がある。それはもう叶わない夢かと思うが、しばしの間でも、牛窓のような町に住むのを想像するのはいいものである。