牛窓の洋風建築

 牛窓の街路は狭い。車1台がようやく通れる道が続く。

 牛窓町牛窓にある、旧中国銀行牛窓支店を訪れる。ここは現在、観光案内の拠点、街角ミュゼ牛窓文化館として開放されている。

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中国銀行牛窓支店

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    この建物は、大正4年(1915年)の建築物である。元々は牛窓銀行本店として建てられた。

 昭和5年(1930年)に牛窓銀行本店を譲り受けた中国銀行は、昭和55年に店舗を移転させた。その後、牛窓町が建物を管理することとなった。

 花崗岩の基礎にドイツ製の赤レンガを積み上げた外観は、20世紀初頭の銀行建築の格式を残している。

 国登録有形文化財である。

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中国銀行牛窓支店の内部

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天井

 内壁は白漆喰で塗られ、天井は草花連続模様が施されている。窓には銀行らしく、外部からの侵入を防ぐため、鉄製の鎧戸が付けられている。

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鉄製の鎧戸

 ドイツ風の重厚な建物である。港町には洋風建築がよく似合う。

 次なる目的地は、擬洋風建築である旧牛窓警察署である。

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牛窓海遊文化館(旧牛窓警察署)

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 旧牛窓警察署は、明治20年(1887年)に西大寺警察署牛窓分署として建設された。その後何度か名称を変えたが、昭和52年まで牛窓警察署として使用されていた。

 現在は、国登録有形文化財に指定され、牛窓の船だんじりや、江戸時代に牛窓に寄港して滞在した朝鮮通信使の資料を展示する牛窓海洋文化館として開館している。

 玄関脇の蘇鉄は、江戸時代に牛窓村の大庄屋だった奈良屋の庭にあったものを移したものである。

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玄関脇の蘇鉄

 館内に入るとすぐ目の前に、文政元年(1818年)製作の御船だんじりが展示されていた。

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御船だんじり

 牛窓神社の秋祭りの際の、氏神様の御召船として製作された。牛窓だんじりの中では最も古いものである。

 その隣にあるのが、だんじり飛龍丸である。これがかなり迫力あるだんじりであった。

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だんじり飛龍丸

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 だんじり飛龍丸は、明治8年(1875年)の製作である。欅造りで、豪華な彫刻が施されている。

 龍の頭部は勇壮だが、後部の鳳凰の彫刻は、グロテスクと言ってよい不敵な笑みを浮かべている。

 牛窓神社の秋の祭礼では、各地区の氏子たちによって、8台のだんじりが町中を曳かれていく。こんなだんじりを曳いて町中を歩けば、さぞかし晴れがましい気持ちになることだろう。

 さて、牛窓海遊文化館には、朝鮮通信使の資料が展示されている。

 徳川幕府は、対内的には幕藩体制を維持し、対外的には鎖国政策を取った。とは言え、完全な鎖国ではなく、外交関係を持つ「通信の国」と、貿易を認めた「通商の国」とは限定的に交流した。

 通信の国が琉球王国と朝鮮王国であり、通商の国が中国とオランダであった。徳川幕府は、琉球と朝鮮とは、国交を樹立していたのである。

 豊臣政権と異なり徳川政権には朝鮮半島への野心がないことを確認した朝鮮政府は、慶長十二年(1607年)から文化八年(1811年)までの約200年間に、徳川将軍の襲職慶賀のためなどに、計12回朝鮮通信使を日本に派遣した。

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江戸を行く朝鮮通信使

 朝鮮通信使は、正使、副使、従事官の三使以下約4~500人で構成されていた。随行員には学者、文人、書家、画家が選ばれ、一大文化使節団の趣があった。

 朝鮮通信使は、釜山を発して対馬を経て、下関海峡を通過し、瀬戸内海沿岸の港に寄港しながら大坂まで航海した。大坂からは東海道を歩いて移動し、江戸に至った。

 牛窓朝鮮通信使が寄港し宿泊した港町の一つである。

 当時の日本は儒学が官学となっており、漢語や漢詩を作るのが文化人の嗜みであった。同じ儒学と漢語の文化圏である朝鮮の文化人と接する機会である朝鮮通信使の来訪は、日本の文化人にとっては貴重なものであった。

 朝鮮通信使が宿泊する施設には、日本の文化人が訪れ、漢詩の応酬や書画の揮毫、学問上の質疑、海外情報の提供を求めた。

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朝鮮通信使の行列を再現した人形

 この牛窓でも、日本と朝鮮の文化人が、海を眺めながら漢詩の応酬をするなど風雅な時間を過ごしたことだろう。

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朝鮮通信使から長州藩への贈り物

 外国からの情報が限定されていた江戸時代にあっては、好奇心の強い日本人にとって、朝鮮通信使の来訪は、興味津々の出来事だったろう。

 現在日本と朝鮮半島の関係は芳しくないが、政治の世界では意見や主張に相違が生じるのは当然のことである。

 しかし、文化的には日本と朝鮮半島が、深い交流を続けてきたのも事実である。文化は閉じるより開いた方が確実に豊かになる。これは歴史上実証されている。

 牛窓の海のように、今後も両国の文化が開かれたものであることを望む。