誕生寺客殿のショーケースの中には、法然上人が熊谷入道に宛てた書状の複製が展示してある。
熊谷直実が、平敦盛を討ち取った後、世の無常に目覚め、法然上人の門を叩いた時、上人と熊谷直実がどんな対話を行ったか興味深いところだ。
それにしても、法然上人は、両親の菩提を供養する役目を熊谷入道に託したわけだから、その信頼は厚かったことだろう。
ところで、中国にも浄土宗という宗派がある。7世紀の中国浄土宗の僧侶善導大師は、法然、親鸞に多大な影響を与え、尊敬された高僧である。
客殿には、善導大師を祀る仏壇の間がある。
部屋の奥の障子の陰に祀られているのが、善導大師だろう。その手前には、聖徳太子と親鸞聖人の掛け軸が下がっている。
親鸞聖人と聖徳太子の掛け軸の間にある塔のようなものは、誕生寺の駐車場に建っている、南朝作州忠臣の忠魂碑の模型である。誕生寺は、南朝側に立っていたのだろうか。
また、仏壇の間の奥にある半折画は、法橋義信最晩年の円熟の作であるらしい。
次の間にある義信の「鷹と温め鳥の図」は、義信が描いた温め鳥があまりにも上手く描けているため、生きて飛び去ってしまったという伝説がある。
写真左から二番目の襖に、温め鳥が描かれていたという。
次の「人物の間」の襖には、「竹林七賢図」が描かれている。
竹林の七賢人とは、中国後漢末から西晋時代にかけて活動した、文学を愛し、酒・琴・囲碁を好み、竹林で清談に耽った七名の知識人のことである。
衣服の線が見事な画だと感じる。
客殿の奥には、法楽園という庭園がある。私が訪れたのは丁度紅葉の季節で、色が変わりつつある楓が庭にあった。
落ち着いた池泉式の庭園だった。
客殿には、勢至丸が那岐山の菩提寺から持ち帰り、比叡山に向けて出発する際に母親に残していった公孫樹の枝が置いてあった。
誕生寺七不思議の一つの「人肌のれん木」である。常に勢至丸の体温を保ち続けていると言われているので触れてみたが、残念ながら冷たかった。
「蟇の間」には、中国の伝説上の仙人の李鉄拐(りてっかい)を描いた襖絵がある。
写真中央の杖を持った人物が鉄拐である。鉄拐は仙人として修業をしていたが、太上老君に会うために、自分の魂を身体から遊離させた。鉄拐は、弟子に七日間抜け殻となった自分の身体を守るように指示し、七日経っても自分の魂が戻らない場合は身体を焼くように言い残して魂を遊離させた。しかし6日後に弟子の母親が危篤となったため、弟子は鉄拐の身体を焼いて母親のもとに向かってしまった。身体のある場所に戻って来た鉄拐の魂は、自分の身体が焼けているのを見て、近くにあった物乞いの死体を借りることにした。
鉄拐の後ろの松の陰に隠れているのが鉄拐の弟子で、鉄拐の足元にいるのが物乞いである。
今回で美作国誕生寺の紹介を終えるが、ここを訪れて法然上人の故郷の風景に触れることができ、上人が浄土宗を開いた後も故郷の両親の墓のことを忘れなかったことを知ることができた。
人間は、成長してからも、幼いころに育った場所のことや両親のことは忘れないものだが、それは歴史上の偉人とて同じことだと知って少し安心した。