播州清水寺は、「今昔物語集」によれば、当初は地蔵信仰の聖地であったらしい。
そのためか、昭和12年になって、大正2年の大火まで常行堂が建っていた場所に地蔵堂が建てられた。現在の地蔵堂は、昭和57年に神戸大学多淵教授の設計により再建されたものである。
地蔵堂に祀られている地蔵菩薩像は、昭和12年に東京芸術大学名誉教授菅原安男が製作したものである。
優しそうな姿の像である。新しい像だが、人々から拝まれ続けることにより、像に魂が入っていくのではないか。
地蔵堂から少し歩くと、鐘楼がある。鐘楼は、大正9年に再建された。
鐘楼内部の釣鐘は、大正8年に山上で鋳造された。鐘楼は、武田五一博士の設計で、国登録有形文化財となっている。
この釣鐘の音は、播磨、丹波、摂津の三国に鳴り響き、開運の鐘と呼ばれている。
更に石段を上がっていくと、根本中堂がある。比叡山延暦寺にも同名の建物があるが、天台宗寺院の中でも相当格の高い寺院でなければ、根本中堂という名称の建物を有することは出来ないだろう。
根本中堂は、推古天皇三十五年(627年)に推古天皇の勅願で建てられた。
現在の建物は、大正6年に武田五一博士の設計で再建されたものである。国登録有形文化財となっている。
根本中堂は、入母屋の破風の下にマジョリカタイルのような彩色の意匠が彫られている。
根本中堂内部は、写真撮影禁止であった。この建物のご本尊は、十一面観音菩薩像である。法道仙人一刀三礼の秘仏とされている。
比叡山延暦寺の根本中堂は、ご本尊が参拝者と同じ目線に位置するように安置されている。
播州清水寺根本中堂のご本尊が入る厨子の高さも、参拝者の目線と同じ高さであった。仏教の真理は、決して衆生を離れては存在しない、ということを建築物を通して表現しているのだろう。
根本中堂から石段を上がると、昭和9年に建てられた宝篋印塔があった。
昭和9年5月に、神戸巡礼会の発願で、護摩堂跡に般若心経の写経を3333巻納めて建立したものだという。
宝篋印塔のある場所から更に石段を上がると、大塔跡がある。
ここには、保元二年(1157年)に平清盛の母である祇園女御が、清盛の武運長久を記念して建てたとされる多宝塔があった。
多宝塔は、明治40年に焼失したが、大正12年に再建された。しかしそれもまた、昭和40年の台風で倒壊してしまった。
今は、塔に至る石段と礎石が残されている。
この場所に多宝塔(大塔)を再建する計画があるという。播州清水寺境内の最高所に位置する場所であり、もしここに多宝塔を再建したならば、大正2年以来の再建計画の画竜点睛となるであろう。
一度灰燼に帰した寺院も、粘り強く再建することで、また新しい価値を築くことが出来る。