岡山県勝田郡奈義町、同郡勝央町、津山市にまたがるように広がる台地を日本原という。
岡山県と鳥取県の県境に聳える那岐山の南側に広がる台地である。
正徳年間(1711~1716年)に、日本全国廻国巡礼を終えた福田五兵衛という人物が、広戸野と呼ばれた当地に茅屋を建てて、因幡街道を行く旅人に湯茶を振舞った。いつしか人々はその茶屋を「日本廻国茶屋」と呼ぶようになった。
廻国巡礼とは、日本中の霊場や札所を廻って参拝することである。中世は専業の宗教行者が行っていたが、近世には庶民の中にも廻国巡りをする者が現れた。五兵衛もその一人だろう。
日本廻国茶屋の周辺は、日本野と呼ばれるようになり、いつのころからか、日本原という名称で親しまれるようになった。
津山市日本原にある国道53号線日本原交差点を150メートルほど西に行った北側に墓地がある。そこに、元文五年(1740年)に亡くなったとされる福田五兵衛の墓碑がある。
日本中を旅行することが今ほど容易ではなく、藩ごとに制度も文化も違った江戸時代に、日本全国を廻った廻国行者の話を聞きたがった人は多かったのではないか。
日本原の土地は、火山性の強酸性黒色土壌であり、江戸時代になっても開発は遅々として進まなかった。
そんな日本原にも、弥生時代から人は住んでいたようで、昭和26年の発掘で、奈義町柿にある野田池の近くから、弥生時代の集落跡が見つかった。野田遺跡と呼ばれている。
今は遺跡のあった場所には農協の牛舎があり、敷地内に野田遺跡の石碑が建っている。
石碑によれば、7棟の竪穴住居と1棟の高床式倉庫が発掘されたという。約2000年前の弥生時代中期の集落跡だったそうだが、今から2000年前にこの地に田を作って、収穫したコメを高床式倉庫に貯蔵して食いつないだ7世帯があったと思うだけで感慨深い。
また、奈義町久常の諾神社の南側からは、弥生時代中期から古墳時代初期にかけての集落跡である御崎野遺跡が発掘されたが、遺跡の発掘を記念するものは何もなかった。
江戸時代には、日本原の開拓が進められたが、福田五兵衛が亡くなる前年の元文四年(1739年)、享保の改革による年貢増徴と西日本を襲った蝗害を背景に日本原で飢饉が発生した。
食糧難で苦しむ百姓がいる一方で、蔵に米を蓄え高利で金を貸し付ける富裕層がいた。
元文四年3月、百姓の藤九郎と与三右衛門が近隣の農村に檄を飛ばして約2000人の一揆勢を組織し、米を蓄える富裕な家を取り囲み、食料の供出を迫り、蔵を開放させた。
5日間続いたこの騒動は、出動した津山藩兵の鉄砲射撃により鎮圧された。大坂町奉行は、一揆を起こした藤九郎と与三右衛門を斬罪に処した。
奈義町滝本には、2人を顕彰する元文一揆義民之慰霊碑が建っている。
中国山地から吹き降ろす冷たい風に包まれて、命を賭けた一連の騒動が行われたことだろう。たった280年前の出来事である。今の日本は当時とは比べ物にならないほど豊かであると思うが、それでも不平不満を言う人が絶えないのは、人間の性であろう。
明治11年(1878年)に、初代勝北群長として赴任した元鳥取藩士安達清風が、北海道開拓使に出仕した経験を生かして、日本原の開拓に着手した。
安達清風は、鳥取藩士時代には、江戸の儒学校である昌平黌で学び、吉田松陰や木戸孝允とも交流を深めた。鳥取藩京都留守居職を務めた。
安達清風の呼びかけで、元鳥取藩士等、明治に入って武士の地位を無くして失業した者54名が入植し、洋式の農具を使い、桑、茶、楮、ニセアカシアの栽培を試みた。
おかげで日本原は養蚕業の一大産地となった。
国道53号線で奈義町から津山市に向かうと、市境手前北側に、安達清風頌徳碑が建っている。
国道の北側に広がる陸上自衛隊日本原駐屯地の敷地の南にある。
今は訪れる者がいないのか、整備もされず、周囲が雑草で覆われている。
清風は有功学舎を設立し、自らも教鞭を取った。有功学舎は林園書院、作東義塾、勝間田農学校と名と場所を変えながら存続し、日本社会党の創設者片山潜などの人材を送り出した。
国道を挟んで南側には、安達清風の屋敷跡がある。今は建物は何も残っていない。土塀の跡に雑草や木が生えているだけである。
広大な日本原は、その後帝国陸軍の演習地として接収され、新野廠舎が建った。今は廃校となっている津山市日本原の旧岡山県立日本原高等学校周辺は陸軍新野廠舎があった辺りである。
旧校舎の北側に、秩父宮殿下(昭和天皇の弟)の御舎営記念碑などが建っている。
終戦後、日本原の陸軍演習地は、日本を占領した連合国軍に接収され、イギリス、オーストラリア、カナダ軍が使用した。
昭和27年の日本独立後は、警察予備隊、保安隊、陸上自衛隊の演習地として使用され、現在に至っている。
思えば、日本列島に人類が到着する前は、列島は無人の地であったわけだから、今われわれが目にする町は全て先人が開拓した場所である。
獣を追い、木や草を切り払って、土を運び、家を建て、田畑を作った先人達には頭が下がる思いがする。
今の当たり前の生活が、実は当たり前ではないことに気づくことは大事である思う。