現在の摩耶山天上寺から南側には、車で行くことは出来なくなっている。遊歩道を歩いて南下すると、摩耶ロープウェイの星の駅がある。
星の駅から西に歩くと、石畳の道になる。
この石畳の道の南側にある燈籠から、焼失した旧天上寺の跡地を整備してできた摩耶山史跡公園への降り口が始まる。
大化二年(646年)に法道仙人が開創した天上寺は、いつしか摩耶山の中腹に場所を移した。
天上寺中興である弘法大師空海が天上寺を訪れて、摩耶夫人像を奉納したのは、唐から帰朝した後のことだから、法道仙人の開創から約160年後のことだろう。その時に天上寺が場所を移した可能性もある。
天上寺は、昭和51年1月に発生した火災により、伽藍の悉くが焼失した。天上寺は、元々の開創の地と伝わる現在地に移転した。焼失した旧天上寺の跡は、摩耶山史跡公園として今に伝えられている。
摩耶山史跡公園の最南端には、旧天上寺の仁王門が残っている。
旧天上寺の建物の中で、唯一焼失を免れたものである。かつてここに祀られていた仁王像は、現天上寺に移された。
仁王門を潜ると、摩耶山史跡公園まで続く旧天上寺参道の石段が続く。
この石段が長く、結構急である。若い男性が、トレーニングのためか、この石段を全力疾走で駆け上がっていった。私はゆっくり歩いて登るだけでも息が上がった。
旧天上寺の南側には、複数の塔頭が建ち並んでいたが、今は塔頭の石垣群だけが残っている。
まるで城塞の石垣のように緊密に組まれている。
塔頭跡から西に歩くと、旧摩耶の大杉という巨木がある。今は枯死してしまったが、かつては幹回り約8メートルもある六甲山随一の巨木であった。
この木は、約200年前に摩耶山一帯で発生した大水害でも生き残り、その生命力に驚いた人々が、神霊が宿る樹木に違いないと思い、大杉大明神として崇めた。
旧天上寺の御神木とされていたが、昭和51年の火災で炎を浴びてから衰え、枯死してしまった。
神戸沖合からでも認めることができるほどの巨木だったらしい。
さて、塔頭跡の石垣を過ぎると、旧天上寺の伽藍跡に至る。
旧天上寺には、鐘楼、阿弥陀堂、摩耶夫人堂、多宝塔、護摩堂、本堂などの建物があった。
今ではその全てが焼失してしまったが、建物の基壇は残っている。その基壇の脇に焼失前の建物の写真が掲示されていて、往時を偲ぶことが出来る。
公園南側には、漱水舎跡がある。今は石の水盤が残るのみである。
かつては青銅製の龍の口から、水が水盤に滴り落ちていたようだ。
漱水舎跡の東側には、阿弥陀堂跡がある。
阿弥陀堂跡に座り込んで、南方の神戸市街を眺めている初老の男性がいた。
横顔を見ると、色黒で顎から長い白髯を垂らしている。インド系の男性と見受けられた。
日本の寺院跡に佇む白髯のインド系男性を見て、一瞬ここがインドの仏教遺跡やヒンズー教遺跡で、ヨーガをしながら瞑想するインド人男性が目の前にいるような感覚に陥った。
しかしここは日本であった。阿弥陀堂跡から、六甲アイランドなど神戸の街並みを見下ろすことが出来た。
漱水舎跡の西側には、鐘楼跡がある。
旧鐘楼の北側には、摩耶夫人堂跡がある。弘法大師空海請来の摩耶夫人像が祀られていた場所である。
空海請来の摩耶夫人像は、昭和51年の火災で焼失してしまった。
参道を挟んだ摩耶夫人堂の向かい側には、多宝塔跡がある。
旧多宝塔は、虚空蔵菩薩を本尊とする二重の塔であった。虚空蔵菩薩像も焼失してしまった。
摩耶夫人堂跡と本堂跡の間には、護摩堂跡がある。
かつてここで護摩行が行われていた。
さて、参道の突き当りが本堂跡である。13メートル四方の立派な本堂がここに建っていた。
旧本堂には、法道仙人請来の十一面観音菩薩像が祀られていた。この像は幸いに焼失を免れ、今も天上寺金堂に祀られている。ありがたいことだ。
さて、本堂跡の北側には、杉の巨木が根本から折れて倒れていて、近くの説明板を圧し潰している。旧天上寺の親子杉である。
旧天上寺の親子杉は、高さ約25メートル、幹回り約4.5メートルで、幹が途中で三本に分かれた巨木だったが、平成30年9月の台風21号の強風により折れてしまった。
親子杉の背後に、旧天上寺の鎮守だった尾桐明神社跡がある。
旧尾桐明神社の写真を見ると、手前に狐の石像があるため、お稲荷さんだったことが分かる。
ここから更に奥に進んでいくと、白山権現、熊野権現、愛宕権現の三権現を祀っていた三権現社跡がある。
摩耶山史跡公園は、昔ここに天上寺があった頃を知る人からすれば、懐かしい場所若しくは悲しみを覚える場所かも知れない。
厚い信仰に支えられて、歴史ある天上寺が今も再興しつつあることは、ありがたいことのように感じた。
さて六甲山は、現在は観光地や別荘地として開発されているが、その開発の発端は、明治28年にイギリス人貿易商のA.H.グルームが、三国池のほとりに山荘を建てたことに始まる。
グルームに倣って、多くの人が六甲山に山荘を建て始めた。グルームは六甲山の登山道を整備したり、六甲山の植林を県知事に推奨したりした。明治36年には、グルームが日本最初のゴルフ場を六甲山に開いた。
大正元年に、現神戸市灘区六甲山町北六甲の記念碑台にグルームの業績をたたえる六甲開祖之碑が建てられたが、昭和17年に破壊された。敵国である英国人の碑などけしからんという考えからだった。
昭和30年に、記念碑台に六甲山記念碑として、再びグルームの胸像が建てられた。
六甲山には、ゴルフ場があったり、羊が放牧された六甲山牧場やオルゴールミュージアムがある。夏も涼しい爽やかな気候ということもあり、どこかヨーロッパ的な雰囲気が漂う山だ。
日本人の祖先は、全て日本列島の外から来た移民たちである。焼き物や製鉄、古墳や寺院の築造、文字と文章での記録化、これ全て渡来人が齎したものである。
日本の歴史を見ると、日本発展のきっかけは、常に外国から文化や技術などを移入した時にあったことが分かる。
歴史を鑑とすれば、これからの日本発展のきっかけも、間違いなく外国からの人材、文化、制度、技術の移入と古い日本の風習の打破にあるだろう。
外国人であるグルームを顕彰する考え方は、これからの日本にも必要だろう。