竹久夢二生家から北東に走る。
築山古墳は、全長約82メートルの前方後円墳である。5世紀後半から6世紀前半にかけての古墳とされている。写真右側が後円部となる。
明治40年(1907年)に後円部中央の石室が発掘された。鏡だけでなく、玉類、武具、馬具が出土した。出土品は東京国立博物館に収蔵されている。現在石室の上部は失われ、石棺が露出している。
調査の結果、この石棺の素材は、阿蘇山産出の凝灰岩が用いられていることが分かった。
石棺の周囲には、大きな石が置かれている。石室の側壁だったものだろう。こんな風に地面から顔を出した石棺が、無造作にそのまま置かれているのは不思議な光景だが、時代を経てみれば、死者を埋葬した石棺も、オブジェに見えないこともない。
前方部から後円部を見れば、前方部の方が高いのが分かる。
上の写真の右が前方部、左が後円部である。私は後円部の方が低い古墳を初めて見た。
ところで、築山古墳のある須恵という地名も、何か須恵器と関係があることを感じさせる。
築山古墳のすぐそばに、須恵古代館という資料館がある。
古代の高床式倉庫を模して造られている。内部には、周辺の遺跡から発掘された考古資料を展示しているらしい。月曜日だったので、休館日であった。
福岡の町は、吉井川左岸の堤防沿いにある。備前福岡は、中世は山陽道随一の繁栄を誇った町である。定期的に市が開かれていたようだ。
国宝「一遍上人絵伝」巻四に描かれている福岡市(いち)は、教科書に載るほど有名な場面である。中世の市場の風俗が良くわかる絵画である。
堤防近くの小さな神社の前に、「福岡の市跡」の石碑が建っている。
一遍上人は、弘安元年(1278年)に福岡を訪れ、説法をしたようだ。今は岡山県、というより山陽道有数の都市は岡山市だが、一遍上人の時代には、今の岡山市は影も形もなく、福岡が備前で最大の繁華の地だった。
岡山が発展しだしたのは、宇喜多直家が浦上氏から岡山城を当てがわれてからである。宇喜多氏が岡山城下の整備に乗り出すと、福岡の商人は岡山に移り住んだ。近世になっても、藩庁は岡山に置かれた。中世の終焉とともに、岡山は発展し、福岡は衰退した。
黒田官兵衛の曽祖父黒田高政は、官兵衛の祖父黒田重隆を連れて、近江から備前福岡に移住した。官兵衛の父黒田職隆は、備前福岡で生まれ、重隆と共に播州に移住した。
後年、黒田官兵衛孝高が、筑前博多の地の城主となった時、博多の町に福岡という名前を付けたのは、父祖の地を懐かしんでのことだろうか。
21世紀の現在、九州の福岡市は、岡山市を超える大都会となった。
福岡の市跡の石碑のすぐ北東に、備前福岡郷土館がある。
備前福岡郷土館は、大正3年に建造された旧平井医院を利用したもので、備前福岡に関する歴史資料や、平井家所蔵の古い医療具や医学書などを展示している。
私が訪れた時は、団体客に貸し切りとなっており、見学できなかった。
福岡の町は、碁盤の目状に整備されており、7つの小路がある。市場小路、横小路などの地名が残っている。
ところどころに、白壁の町家が残っている。
町の盛衰というものは面白い。今繁栄している都市も、何らかの原因で衰退する可能性がある。
東京を始め、今の日本の都道府県庁所在地の大半は、戦国時代以降に城下町として発展した町である。わが兵庫県の県庁所在地神戸市が発展し始めたのは、幕末になってからである。
日本という国が始まったころには、今の日本の都市は全て形もなかったわけだから、いずれ日本中の都市が跡形もなくなることもあり得る。
自動運転、5Gの普及や日本人人口の減少、外国人人口の増加などで、これからの日本の都市の形は変わっていくことだろう。
そんな町の盛衰の中で、後世に残るものは何だろうとつい考えてしまう。