兵庫県神崎郡市川町、同神河町、多可郡多可町の3つの町にまたがる形で聳え立つのが名峰笠形山である。標高は939メートルである。登山道が整備されて、登りやすい山であるため、登山を趣味とする人たちには人気の山である。
今日は、その笠形山にまつわる史跡を紹介する。
笠形山に登るには、多数の登山口があるが、メジャーなのは市川町から登るコースである。市川町側の麓にあるのが、兵庫県指定文化財の、塩谷十三仏種子板碑である。
十三仏板碑とは、初七日から三十三回忌までの十三回の供養を行うための石塔である。通常は一石に十三の梵字若しくは仏像と、造立の由来を刻むのが一般的である。
塩谷からは、昭和37年に九つの板碑が発掘された。塩谷十三仏板碑のように、一石に一仏の梵字か像を刻んでいるのは珍しいらしい。この板碑の碑文には、応永二十年(1413年)に、常念という僧が、死後の幸福を祈念して築いたことが、書いているそうだ。
周辺では丁度稲刈りの農作業が行われていた。その中を笠形山の登山口へ向かう。
麓の駐車場はすでに登山客の車で一杯である。流石人気の山だ。
笠形山には、笠形寺と笠形神社がある。今日の目的地はそこである。
私は、笠形神社に至るコースを登り始めた。ちなみに目的は登山ではなく、史跡巡りであるため、笠形神社に着いたら折り返すことにした。
登り始めてすぐに笠形神社の鳥居がある。
鳥居を抜けるとすぐに、獣を通さないためのゲートがあって、そこからが本格的な山道である。
登山を始めて、30分くらいで、笠形寺に到着する。
笠形寺は、大化の改新のころに法道仙人が開いたと伝えられ、その後平安時代に慈覚大師円仁が再興し、天台宗の山岳密教の道場として栄えた。
明治時代に大火があり、現在は蔵王堂を残すのみである。
仏像としては、木造毘沙門天像、木造聖観音像、木造不動明王像があり、その他に絹本着色不動明王像、笠形寺の鬼面を所蔵する。
ここから更に40分登ると、笠形寺の鎮守社である笠形神社がある。江戸時代までは、神仏習合していたのであろうが、今は截然と分かれている。しかし、笠形神社の拝殿は、元々笠形寺の本堂だった建物であり、神仏習合の名残はある。
笠形神社の建物は、拝殿、中宮(2棟)、本殿と4つあるが、どれも彫刻が素晴らしい。
拝殿から見て行こう。
中宮は、銅板葺きの春日造りで、祭神は須佐之男命である。中宮の彫刻は、丹波の彫刻家の一族、中井権次一統の6代目、中井権次正貞(1780~1855年)らの作品である。
それにしても見事な作品だ。山上にこんな宝物があるとは。
本殿も、銅板葺きの春日造りである。祭神は大奈牟知命である。
本殿の彫刻は、中井権次一統5代目の中井権次正忠(1750~1818年)や久須善兵衛正精らの作である。
さて、名彫刻を堪能した後、本殿の脇を見ると、そこには現在姫路城大天守の西大柱として使われている檜が伐り出された跡があった。
当ブログの今年8月17日の「姫路城その4」の記事でも紹介したように、姫路城の昭和の大修理の時に、大天守の西大柱を新材に交換するため、岐阜県の山奥から、1本の長大な檜が伐り出されたが、搬送作業中に折損してしまった。
そのため、急遽接ぎ木のために、もう1本の檜が必要となった。そして選ばれたのが、笠形神社境内にあった御神木の檜である。
ここから伐り出された檜は、長さ42メートル、周囲4メートルであった。
伐り出された檜は、姫路の大手前通りを通って姫路城まで運ばれたが、姫路市民の大歓迎にあったようだ。
大手前通りを曳かれる間は雨が降っていたそうだが、柱が姫路城に到着した途端に雨がぴたっと止んだという。
かつての笠形神社の御神木は、今は姫路城西大柱として、岐阜県から伐り出された檜に継ぎ足され、姫路城大天守の3階から上を貫通している。
木材は、伐り出されて建物の建築に使われてからも、年々強度を増したりして、生き続ける材料だという。笠形神社の御神木も、姫路城大天守の西大柱として今も生き続けていると思う。
ここに来て、姫路城の故郷というか、心に会った気がした。