書写山圓教寺 後編

 三之堂から更に参道を進むと、見えてくるのが、鐘楼である。

 鐘楼は、元弘二年(1332年)の建築。鐘は元亨四年(1324年)の再鋳とされる。鐘楼は、国指定重要文化財である。

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鐘楼

 鎌倉時代後期の様式を残し、鐘楼としては、兵庫県下最古の遺構である。

 次に見えてくるのは、金剛堂である。金剛堂のあった場所で、性空上人は、金剛薩埵とお会いになり、密教の印を授けられたという。

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金剛堂

 今の金剛堂は、室町時代の建築である。国指定重要文化財だ。

 食堂に展示してあった、金剛薩埵像は、金剛堂のご本尊である。

 更に進むと、圓教寺奥の院である開山堂に至る。

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開山堂などの建物群

 手前にある長い建物は、護法堂拝殿である。若いころの弁慶がここで勉強したことから、弁慶の学問所とも呼ばれている。

 今の護法堂拝殿は、天正十七年(1589年)の建立である。

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護法堂拝殿

 護法堂拝殿と向かい合うように建っているのが、護法堂である。

 性空上人が書写山で修行中、常に上人の傍で修行を助けた乙天護法童子と若天護法童子を、上人の没後、山の守護神として祀った。

 乙天護法童子不動明王の、若天護法童子毘沙門天の化身とされ、容貌魁偉で怪力、神通力の持主とされる。

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護法堂

 右が乙天社、左が若天社である。室町期の春日造りの社殿である。国指定重要文化財である。

 どんなお寺に行っても、大体一つは神社様式の建物がある。その土地の神様を祀ったものである。

 お寺を開くときに、その土地の神様に伺いを立て、お許しがあれば開山し、その代わりに土地の神様を寺の守護神として祀るのである。

 乙天、若天は、今も圓教寺を護り続けている。

 さて、等身大の性空上人像を祀るのが、開山堂である。今の開山堂は、寛文十一年(1671年)に再建されたものである。

 性空上人像は、普段は公開されていないが、毎年春に御開帳され、見学することが出来る。

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開山堂

 開山堂の軒下には、江戸時代初期の伝説的彫刻家、左甚五郎作と伝えられる力士像がある。

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伝左甚五郎作力士像

 本来なら、力士像は、開山堂の四隅にあるべき筈だが、西北隅だけ力士像がない。

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力士像が逃げ出した北西隅

 軒の重さに耐えかねて、北西隅の力士像だけ逃げたと伝えられている。

 開山堂に入ると、御朱印帳に御朱印をもらう人たちが列をなしていた。今、世は御朱印ブームである。今でもお寺は様々な形で人々の気持ちを支え続けている。

 開山堂の裏には、和泉式部の歌塚と伝えられる宝篋印塔がある。

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和泉式部歌塚

 和泉式部は、紫式部と同時代に、中宮彰子に仕えた歌人である。

 和泉式部は、性空上人から教えを受けるために、圓教寺を訪れたが、女性歌人を厭った上人に居留守を使われ、会ってもらえなかったと伝えられる。

 和泉式部が、

暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき 遥かに照らせ 山の端の月

という釈教歌(仏教を解釈する歌)をお堂に書きつけると、歌に感銘を受けた上人が返歌をしたそうだ。

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和泉式部歌塚解説板

 歌意は、「私はこのままでは闇の世界から闇の世界に入ってしまうでしょう。どうか上人様、遥か遠くからでも、真理の光で私の足元を照らして導いてください」というところだろう。月の光は、仏教では真理の比喩としてよく使われる表現である。

 とは言え、この歌塚は、天福元年(1233年)の銘があるもので、和泉式部の時代から200年も後のものである。和泉式部とどこまで関係があるかは分からない。

 ただ、「拾遺和歌集」に収録されたこの歌を、和泉式部が詠んだことは間違いないだろう。

 当時の性空上人は、花山院、円融院、藤原道長藤原公任(「和漢朗詠集」の編者)などから尊信され、上京を促されたが、ついに書写山から出なかったと言われている。

 私は和泉式部歌塚を観た縁で、家に帰って「和泉式部集」を読み返してみた。

 当時の宮廷貴族の恋愛は、男が女の下に通い、夜を共にし、朝になると男が帰る、というものである。

 和泉式部の歌の大半は、自分の下に通って来る男を待ちわびたり、疑ったり、懐かしんだり、男に見捨てられた自分を哀れんだりする歌である。徹頭徹尾「待つ女」の歌である。

 待つ女である和泉式部が、教えを受けるために積極的に圓教寺を訪れたというのは、ちょっと信じ難い気もするが、一方で恋に疲れた和泉式部が、当時尊敬されていた性空上人に救いを求めたのもあり得る気がする。

 真相は闇の中であるが、一代の女流歌人と一代の宗教家が、書写山を舞台に、仏教に関する和歌を交わしたというのは、日本の歴史の一場面として、あってもいいような気がする。

書写山圓教寺 中編

 圓教寺拝観のクライマックスは、何といっても、大講堂、食堂、常行堂の三之堂である。

 私が圓教寺に来るのはこれで5回目だが、いつ来ても三之堂の壮大さに圧倒される。

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三之堂

 規模の大きさがなかなか写真では伝わらないが、装飾のない簡素な木造建築であるだけに、余計感動する。写真右から、大講堂、食堂、手前が常行堂である。この三つの木造建築を総称して三之堂と呼ぶ。

 大講堂は、圓教寺の本堂に当たり、経の講義や議論を行う学問と修行の場であった。永延元年(987年)の創建以来、何度も災禍に見舞われた。現在の大講堂は、下層が永享十二年(1440年)に、上層が寛正三年(1462年)に建立されたものである。国指定重要文化財だ。

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大講堂

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 大講堂には、木像釈迦如来像と両脇侍像が祀られている。これも国の重要文化財である。

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木像釈迦如来

 手前を歩く人と比べたら、伽藍の大きさが分かるだろう。圓教寺文化財の宝庫だが、何故か国宝に指定されたものはない。

 三之堂の真ん中に位置する食堂(じきどう)は、長大な建物である。

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食堂

 食堂は、修行僧の寝食のための寮として使われていた。現在の食堂は、寛正年間(1461~1466年)の建築とされる。現存する総二階建ての仏堂としては他に類例がなく、国内最大規模を誇る。国指定重要文化財である。

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食堂

 蔀戸と腰組で支えられた二階の縁が、美しい姿を見せてくれる。

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蔀戸と円柱

 食堂1階には、写経体験のためのスペースがあるが、蔀戸と円柱に挟まれたこの場所は、「ラスト・サムライ」でトム・クルーズ渡辺謙が会話するシーンで使われた。

 食堂は、圓教寺の宝物を展示する宝物館としても使われている。

 常行堂は、常行三昧(本尊阿弥陀如来像の周りを、弥陀の名を唱えながら回る修行)を行うための建物である。これも、国の重要文化財である。

 常行堂の北側は楽屋と呼ばれる舞台付きの建物となっている。

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常行堂楽屋

 この楽屋は、大講堂に向いている。大講堂の釈迦如来像に舞や劇を奉納するためのものだったのではないか。

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常行堂

 常行堂の中には、阿弥陀如来像が祀られている。

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常行堂阿弥陀如来

 光が当たって金色に輝く阿弥陀如来像を見て、昔の人は西方楽土を思ったのだろうか。

 さて、食堂の中の宝物を見る。ここには、仏像などのさまざまな寺宝が展示されている。

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役小角

 天正年間に、秀吉は、黒田官兵衛の進言により、書写山に陣地を築く。圓教寺には、兵を収容する建物も多く、食糧の調達も容易だという理由かららしい。圓教寺は、2万7千石の寺領を持っていたが、全て秀吉に没収されてしまった。

 恐らく、この食堂にも秀吉軍の兵士が駐屯していたことだろう。

 また、圓教寺薬師如来像と阿弥陀三尊像は、秀吉により近江国長浜に持ち去られ、今も長浜市の舎那院と知善院に祀られている。

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性空上人像

 様々な仏像などの展示品の中で、私の目を引いたのは、優美な金剛薩埵像である。

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金剛薩埵像

 また、弘法大師空海が天長七年(830年)に大護摩供を行い、結願に護摩供の灰と炭を使って自ら作ったとされる手形が展示してあった。

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空海の手形

 天長七年と言えば、まだ圓教寺が開かれていない時である。天台宗圓教寺であっても、空海の手形は寺宝になるということか。

 また、圓教寺は、7歳から17歳まで、武蔵坊弁慶が勉学に励んだ場所と伝えられている。弁慶が使ったとされる勉強机も展示してあった。

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弁慶の勉強机

 食堂1階には、かつて圓教寺の開山堂で密教修法に使われていた書写塗りの大壇が展示してある。

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書写塗大壇

 この大壇は、応永三十年(1423年)に造られたものだが、秀吉により奪い去られ、最近まで行方不明であった。平成12年に無事書写山に戻り、平成23年まで実際に密教修法に使われていたらしい。

 さて、三之堂に対面する形で、姫路藩本多家の霊廟が建っている。17世紀に姫路藩主だった本多家は、今の姫路の礎を築いた大名である。

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本多家霊廟

 元和三年(1617年)に姫路藩主となった本多忠政が、圓教寺復興に尽力したことは前に書いたが、ここには歴代藩主の忠政、政朝、政長、忠国と、忠政の父忠勝の5つの廟屋が建っている。 

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本多家霊廟

 本多忠勝は、初代桑名藩主で、生前に姫路の地を踏んだことはなかった。元々桑名に墓があったが、忠政がこの地に改葬したらしい。

 忠勝は、徳川四天王の一人で、家康の天下取りを支えた名将である。鹿の角の付いた兜で有名である。

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本多忠勝公廟屋

 私は、三河出身の猛将本多忠勝の墓が姫路にあることに、意外の感を持ったが、文殊菩薩性空上人に、住めば六根が浄められると告げた書写山こそ、戦に明け暮れた忠勝が眠りにつく地に相応しいのではないかと思った。





 

 

書写山圓教寺 前編

 姫路市にある天台宗の寺院、書写山圓教寺(えんぎょうじ)。ここは西国三十三所観音霊場の第27番札所である。書写山上に聳え立つ数々の伽藍の壮大さから、西の比叡山と呼ばれる。

 今では、トム・クルーズ主演映画「ラスト・サムライ」や、ドラマ「軍師官兵衛」「本能寺ホテル」「関ヶ原」などのロケ地としても著名である。

 圓教寺は、康保三年(960年)、性空上人によって開創された。上人が書写山に登った時、夢に現れた文殊菩薩から、「この山に登る者は菩提心を起こし、また峰に住む者は六根を浄められる」とのお告げを得た。そこで上人は、この山に寺を建てたという。

 古くから朝廷の信仰を集め、当時の宮廷貴族たちが参籠したことで、大和の室生寺、近江の石山寺延暦寺などと並んで、古典文学に出てくるお寺である。

 書写山の標高は、371メートルである。登るのに手ごろなため、ハイキングコースとしても親しまれている。

 しかし、多くの人が利用するのが、麓の駅から山上駅まで運んでくれるロープウェーである。私も、上りは横着してロープウェーを使った。

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書写山ロープウェー

 ロープウェー山上駅からは、平坦な道になるので、気軽な気分で参拝できる。

 山上駅から山門までの参道には、西国三十三所観音霊場それぞれのご本尊となる観音様の銅像が並んでいる。

 圓教寺のご本尊の六臂如意輪観世音菩薩像は秘仏であるが、毎年1月18日に開扉され、拝観することが出来る。

 今日は当然拝観できなかったが、参道でご本尊を再現した銅像が出迎えてくれた。

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六臂如意輪観世音菩薩像

 不適切な表現かも知れないが、ちょっとエロチックな像である。

 三十三所霊場ご本尊の銅像は、どれも見事だが、私の気に入ったのは、第9番札所、奈良の興福寺南円堂のご本尊、不空羂索観音像である。

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不空羂索観音

 優しさの中に凛とした強さを感じる。

 しばらく行くと、仁王門がある。ここからが、圓教寺の境内になる。

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仁王門

 仁王門は、兵庫県指定文化財である。寛文五年(1665年)の建築。ちなみに、圓教寺境内は、国指定史跡となっている。

 仁王門を過ぎて歩くと、右手に、壽量院が見えてくる。

 壽量院は、承安四年(1174年)に後白河法皇が参籠されたという記録が残っており、寺域内で、最も格式の高い塔頭寺院である。

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壽量院への石段

 壽量院は、国指定重要文化財である。しかし、一般公開していないので、拝観できなかった。

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壽量院

 更に参道を進むと、今度は右手に十妙院が見えてくる。

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十妙院

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十妙院

 十妙院は、元々赤松満祐が、16歳で亡くなった娘の供養のために建てたものらしい。

 瓦の紋章は、赤松家の紋章である右三つ巴ではなく、左三つ巴だが、何かいわれがあるのだろうか。

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左三つ巴

 今の十妙院の建物は、江戸時代の建築である。

 赤松満祐は、6代将軍足利義教を殺害したせいで、天皇から赤松追討の綸旨が出され、朝敵となって攻め滅ぼされた人物だが、やはり人の子だったのだろう。

 更に参道を進むと、湯屋橋がある。

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湯屋

 湯屋橋は、元和三年(1617年)に、池田光政の転封に伴い、姫路藩主となった本多忠政が造らせたものである。

 本多忠政は、徳川四天王と呼ばれた猛将本多忠勝の子である。忠政は、姫路城主となってから、圓教寺に来てみて、その荒廃に驚いたという。

 秀吉が、別所長治の離反に対して書写山に陣地を構えたことから、圓教寺は荒廃した。秀吉は、圓教寺の寺宝の数々を、領地である近江の長浜に持ち去ったとされている。

 圓教寺にとっては、秀吉による播磨統治の時代は、受難の時代であった。
 本多忠政は、一門、家臣、城下で寄進を募り、圓教寺再興に尽力した。以後、圓教寺姫路藩本多家の菩提寺となる。

 湯屋橋を過ぎると、いよいよ目の前に摩尼殿が見えてくる。

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摩尼殿

 摩尼殿には、ご本尊の六臂如意輪観世音菩薩像と国指定重要文化財である四天王像を祀る。

 摩尼殿は、天禄元年(970年)に建てられたとされる。桜の霊樹を天人が礼拝するのを見た性空上人が、その桜の木を彫って作ったのが、ご本尊の六臂如意輪観世音菩薩像と言われている。

 前摩尼殿は、大正10年(1921年)に焼けてしまった。今の摩尼殿は、昭和8年の再建である。清水寺のような、舞台造である。国登録有形文化財だ。

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摩尼殿を見上げる。

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摩尼殿の正面。

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摩尼殿廊下。

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摩尼殿内陣

 今日は、気温34℃くらいにはなっていたと思うが、摩尼殿に上がると、涼しい風が吹き渡った。周囲の緑と相俟って、ひと時の涼を味わうことが出来た。

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摩尼殿から見る緑。

 さて、摩尼殿から降りて、参道を更に進む。

 右手に異様な千体地蔵が見えてくる。

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千体地蔵

 千体地蔵を横目に参道を歩く。ここまでで、全体の三分の一ほどである。さすが、西の延暦寺である。

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参道を行く。

 圓教寺境内には、外国人観光客も行き交っているが、日本人の登山客も数多く歩いている。書写山が、手ごろな高さの山であることと、山上の文化遺産の豊富さが、多くの人に愛される理由だろう。

 性空上人がこの地を霊場に選んだのも、先見の明があったものと思われる。

白旗城跡

 赤松円心が築城し、その後赤松氏の本拠地となった白旗城跡は、宝林寺から車で少し走ったところにある。兵庫県赤穂郡上郡町にある赤松という集落に登山口がある。

 ここは、赤松氏ゆかりの相生市の感状山城、姫路市夢前町の置塩城と共に、国指定史跡となっている。

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白旗山遠望

 城跡は標高は440メートルの白旗山の山上にある。蒸し暑い日だったが、頑張って登ってみた。

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登り口

 登り口には、山中の野生動物が外に出てこないように、ゲートが設置してある。不落の城であったことから、「落ちない城」として、受験生にアピールしているようだ。

 登り始めると、最初は平坦な道だが、途中から岩石がごろごろしだして、石の上を歩くようになる。

 白旗山は、岩石が豊富にある山で、赤松円心が籠城して新田軍と戦った時も、攻め上ってくる新田軍に対して落とす石には困らなかったらしい。

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新田軍に落とした石か。

 登山道や、道の横の斜面には、大きな石が転がっている。これらの石が、赤松軍が新田軍に落とした石ではないかと思う。今や苔むして、半ば土に埋もれている。

 途中から急坂となり、足元も岩だらけになる。

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途中の石垣の名残。

 途中ところどころ、石垣の名残が見える。

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転がる岩石の上を歩く。

 行程の真ん中辺りで、苔むした岩石群の上を歩いていかなければならなくなる。写真の岩だらけの谷間は、これでも登山道である。足元が滑りやすいので、注意しながら歩く。

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二の丸跡

 私が登った日は、曇った湿気の高い日だった。山中は、より湿気が高い。眼鏡が曇り、体が汗まみれになる。

 負けじと登ると、ようやく平坦な場所に出た。二の丸跡であった。ここから本丸跡はすぐである。

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本丸跡

 本丸跡には、白旗城跡の説明板がある。

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白旗城平面図

 白旗城は、戦国時代に本格的な山城に整備された。説明板の白旗城の年表を見ると、康安元年(1361年)、赤松則祐が、幼いころの足利義満を白旗城に迎え入れたとある。義満3歳の時である。

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白旗城の歴史

 白旗城は、歴史の一翼を、一度ならず何度も担ったようだ。

 眼下には、赤松の集落が見える。

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眼下の赤松の集落

 白旗城跡には、城の遺構と言えるものは、あまり残っていない。白旗城址の碑が建っていることで、かろうじてここが城跡と分かる。

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白旗城址之碑

 しかし、典型的な中世の山城として、何度も歴史の舞台になった白旗城は、もう少し注目を浴びてもいいと思う。

 この前、姫路のジュンク堂書店に行くと、ミネルヴァ書房の「赤松氏五代」という本が目に付いた。

 赤松氏は、鎌倉幕府に反抗したり、後醍醐天皇に歯向かったり、室町幕府将軍を暗殺したり、三種の神器を奪ったりして、中世日本で旧来の権威を恐れず暴れたが、良く解釈すると、古い秩序を壊して実力主義の下克上の時代を準備した一族と言えるのかも知れない。

 その赤松氏も、戦国時代に入り、元々家臣だった播磨国守護代の浦上氏に乗り越えられて、自らが下克上に直面する。

 「赤松氏五代」、今は忙しいが、いずれ買って読んでみたいと思う。

日産スカイライン

 スカイライン

 この言葉を耳にすると、私は懐かしいような、切ないような、甘酸っぱいような、そんな気持ちになる。と同時に、胸の高鳴りを覚える。私をこんな気持ちにさせる車は、スカイラインしかない。

 スイフトスポーツを愛車にしている今でも、スカイラインのニュースが流れると気になる。女性が、学生時代に好きだった先輩を思い出した時には、こんな気持ちになるのだろうか。

 今やスカイラインよりも高性能な車はいくらでもある。走りの質感では、BMWの方が上かも知れない。ポルシェ911には逆立ちしても勝てないだろう。それでも、私をさっきのような気持にさせる車は、スカイラインしかない。

 なぜなのだろう。考えてみた。まずは歴史である。スカイラインには歴史がある。昨日グロリアの記事で書いたように、歴代スカイラインには、プリンス、日産の技術陣が、レースで勝つことを目的に作った、ホモロゲーションモデルがある。S54GT-B、KPGC10型GT-R、R32、33、34GT-R。

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3代目スカイライン、PGC10型GT-R

 これらのモデルは、スカイラインの中では特殊なモデルだが、あくまでもファミリーユースで使えるセダンをベースに作った点にロマンがある。GT-Rに乗れなくても、普通のグレードのスカイラインに乗っているだけで、「俺の車をベースに作ったGT-Rが、レースでは無敵なのだ」と思うことが出来る。

 私は、かつてR32スカイラインのNAモデルに乗っていた。グレードは、GTSタイプJという、マイナーモデルである。5速ミッションのクーペ。NAの直列6気筒エンジンは、パワーはそれほどでもないが、高回転までスムーズに回り、官能的なエンジン音を響かせた。

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R32スカイライン(画像日産)

 上のグレードでは標準装備のスーパーハイキャスが着いていないので、ハンドリングは素直であった。車が、「ここでブレーキを踏んで荷重を前に移して、このタイミングでハンドルを切って、ここでアクセルを踏んだら、後輪がこれぐらい滑り、頭がこっちに向く」と心の中で思い描いたとおりに動いてくれた。

 エンジンの回転の気持ちよさと、意のままに動いてくれる車体。これが合わさって、「爽快な走り」となる。その点で、私のR32は、爽快な走りを実現していた。弱点は、自然吸気2000cc直列6気筒エンジンの低速トルクが細かったことである。走り出しは渋かった。「あと100キロ軽かったら」といつも思っていた。

 そう、私がスカイラインに求めるのは、「爽快な走り」である。決して暴力的な加速だとか、単純な速さではない。スカイラインは、プリンス自動車の開発者櫻井真一郎が、群馬県の高原を訪れた時に、彼方の山並みの地平線(スカイライン)を眺めて、車名を決めたとされる。高原の空気を吸いながら眺める山並みのように、気持ちの良い爽やかな走りが、スカイラインスカイラインである第一条件だ。爽快な走りのためには、回転がスムーズな直列6気筒エンジンと回頭性のいいFRの組み合わせが理想だ。

 次に求めるのは、レースの息吹を感じるスパルタンさである。スカイラインに豪華さはいらない。GT-Rはレースを前提に作られているが、ベース車である普通のスカイラインにも、レース車の血が流れていると感じさせる作り方をしてもらいたい。

 普通のセダンベースの車を改造してポルシェを追いかける、というのが元々のスカイラインのロマンであった。昔のスカイラインからは、作り手の熱さを感じることができた。

 GT-Rスカイラインから独立して、レースに出場していないV35以降のスカイラインには、それを求めることは出来ないのかも知れない(スカイラインの海外仕様であるインフィニティQ50の2.0tは、BTCCに出ているが)。それでも、R35GT-Rで培った技術をスカイラインに導入してくれれば、気分は高揚する。

 ここで思いついたが、私がスカイラインに求める絶対条件は、高回転域で野太く咆哮するエンジン音である。これがなければ、どんなに性能が良くても買わない。

 スカイラインは、今や全く売れていない。スカイラインと聞いて、胸にときめきを覚える世代は、R32、33、34に憧れた40代以上の世代だろう。とは言え、スカイライン史上最も売れた70年代のケンメリ、ジャパンは、排ガス規制で牙を抜かれて、走りは低評価だった。売れればいいというものでもない。

 7月16日に発表された、V37スカイラインのマイナーチェンジモデルは、日産のシンボルであるVモーショングリルと日産のエンブレムを採用し、丸型テールランプを復活させた。エンジンも待望の3000ccツインターボVR30DDTT型エンジンを搭載する。最強グレードの400Rは、スカイライン史上最強の405馬力のエンジンを積む。

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V37スカイライン(画像日産)

 今の日産からは、ゴーン時代にアメリカ市場に向いていたスカイラインを、日本のスカイラインとして売り出そうとする意志を感じる。次のV38には、更に期待できる。

 日産スカイライン開発陣には、ひたすら爽快な走りとスパルタンさを求め続けて欲しい。R32スカイラインの運転席に座ると、車が「俺は走ることしか考えていない」と主張しているように感じたものだ。それは、作り手の意志が車を通じてドライバーに届いていたことを意味する。

 私がR32の運転席に座っていた時には、私がスカイラインに求めていたものと、作り手が車を通じてドライバーに伝えたかったことが一致していた。この幸福な体験があったから、今でもスカイラインの名前を聞くと、冒頭に書いたような気持ちになるのだろう。 

 それにしても、人に恋心に近い気持ちを抱かせる自動車という道具は、一体どういう道具なのだろう。

 

宝林寺 円心館

 鎌倉時代末期から戦国時代にかけて、播磨の国はおろか、日本国を騒がせた武家・赤松氏。

 兵庫県赤穂郡上郡町河野原にある宝林寺は、赤松氏ゆかりの寺である。赤松則祐(そくゆう)が、備前国新田庄にて、雪村友梅に開山させて、臨済宗の寺院として創建した。
 火災で焼失した後、文和四年(1355年)に河野原に移し、赤松惣領家の氏寺とした。宝林寺は、赤松家と盛衰を共にし、今は真言宗の寺となっている。

 宝林寺にある円心館には、赤松円心赤松則村)の木像等の赤松氏ゆかりの品を展示している。

 円心館には、電話で見学を予約してから行かなければならない。自宅を出る直前に電話したが、幸い対応してもらえることになった。

 宝林寺は、智頭急行河野原円心駅の近くにある。宝林寺に着いて、真っ先に目に付いたのは、駐車場にとめられた、A30型日産グロリアである。

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A30型グロリア

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 グロリアは、スカイラインと共に、元々プリンス自動車が作った車である。プリンス自動車は、昭和41年に日産自動車と合併し、グロリア、スカイラインは日産の車になった。

 グロリアは、合併後、日産セドリックと兄弟車となった。写真のA30型グロリアは、3代目のグロリアである。1,2代目グロリアは、プリンス自動車が作ったが、3代目からは日産ブランドで売りに出された。しかし、3代目グロリアは、合併前からプリンス自動車が開発していたので、実質はプリンス・グロリアである。

 私が感心して眺めていると、宝林寺を管理していると思われる結構年配の方が、寺の中から現れた。さっきの電話の方である。グロリアは、この管理人のものであった。

 私が、グロリアについて質問すると、「この型のが好きでねえ。和歌山の方まで買いに行ったんですよ。エンジンはL型じゃなくて、G7ですよ」と誇らしげにいう。

 A30型グロリアは、1967年4月から1971年2月まで発売された。最初はプリンス製のG7型エンジンが搭載されたが、1969年11月のマイナーチェンジで、日産製のL20型エンジンに変更される。 マイナーチェンジ後のL20型エンジンは、70,80年代にスカイライン、セドリック、グロリア、ローレルなどに積まれ、日産の屋台骨となったエンジンだ。頑健だがあまり回らない眠たいエンジンで有名である。このグロリアは、どうやらマイナーチェンジ前のものらしい。

 G7型エンジンは、2000ccの直列6気筒エンジンである。当時プリンスは、4気筒1500ccのスカイラインをレースに出したが惨敗した。プリンスは、次のレースで勝つため、スカイラインの車体を強引に引き延ばし、グロリア用直列6気筒G7型エンジンを積んで、レース用改造モデル、スカイラインGTを開発した。このスカイラインGTが、第2回日本グランプリでポルシェ904とデッドヒートを演じたのは有名な話である。そして、スカイラインGTは、後のスカイラインGT-Rにつながっていく。

 つまり、目の前のグロリアが積むG7型エンジンは、日本自動車史上の画期となった伝説のエンジンなのである。

 ところで、G7型エンジンを作ったプリンス自動車のエンジニア達は、ゼロ戦のエンジンを作った中島飛行機の技術家達である。彼らは、ハコスカGT-RのS20エンジンも作った。GT-Rゼロ戦の血が流れていると言ったら言い過ぎか。

 私は、G7型エンジン搭載車にお目にかかったことに感激した。今やG7を積んだスカイラインGTは、中古で500万円ほどする。

 管理人は、「今も運転しますよ。でも今の車と違って、全部鉄で出来ているので車体が重くてねえ。」と子供のように嬉しそうに語っていた。

 さて、この管理人に案内されて、円心館に入る。

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円心館

 円心館には、兵庫県指定有形文化財の赤松三尊像が置いてある。

 赤松家を発展させた赤松則村(出家して円心と称した)、円心の三男則祐、則祐の娘で出家した千種姫(覚安尼)、宝林寺を開山した雪村友梅和尚の像がある。

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赤松円心

 赤松家は、村上天皇を祖とする源氏の武家集団である。元々佐用庄(現兵庫県佐用郡佐用町)の豪族であった。鎌倉時代末期の播磨の国は、「悪党」と呼ばれる、荘園を荒らす武装集団が跋扈していた。悪党は、それまでの1対1の戦いにこだわる武士と異なり、集団で一人を攻撃したり、後に「足軽」と呼ばれる、下半身に甲冑を着けない身軽な姿で戦ったり、それまでの戦法を変える存在だった。

 赤松円心は、悪党を傘下に収め、彼らの戦い方を取り入れ、足軽や雑兵を用いた戦法を始めた。

 円心は、護良(もりなが)親王が、鎌倉幕府追討の令旨を出した時、それに呼応して鎌倉幕府打倒のために挙兵し、京都まで攻め上り、幕府の西国支配の拠点・六波羅探題を攻め滅ぼした。

 しかし、建武の新政で、護良親王後醍醐天皇に排除されてからは、円心は、後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏についた。感状山城の記事で書いたが、円心は白旗山城に立て籠もり、足利尊氏を追討するために九州に向かう新田義貞軍を足止めした。これがなければ、足利尊氏は攻め滅ぼされていたかもしれない。

 つまり、赤松円心は、鎌倉幕府滅亡と室町幕府樹立の立役者である。こんな大物が、西播磨から出たことは誇らしい。

 円心の子・赤松則祐は、相生市にある感状山城に立て籠もり、白旗山城に籠城した円心と共に新田軍と戦った。

 円心の跡を継いだ則祐は、播磨、摂津、美作、備前4か国の守護大名となり、山名、一色、京極氏と共に、室町幕府四職の一人となる。幕政の中枢に入った。

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赤松則祐

 この宝林寺を建てたのも、則祐である。

 則祐の娘が覚安尼である。

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覚安尼像

 覚安尼像の隣に、宝林寺を開山した雪村友梅和尚像が並ぶ。

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雪村友梅和尚像

 これらの像は、今にも動き出しそうな生々しさに溢れていた。

 管理人によると、これらの像は、南北朝期に、慶派仏師が作ったものだそうだ。慶派仏師が、仏像ではなく、実在の人物の像を作ったということが、非常に珍しいらしい。

 管理人の話では、昭和51年に、文部省と兵庫県教育委員会の役人がこれらの像を見に来た時に、文部省の人は最初、「これは国宝にしてもいいです」と言ったという。しかし、円心像が後世に修復され、色も塗りなおされているのを知って、国宝・重要文化財には指定できないと言ったという。一緒に来ていた兵庫県教育委員会が、「それでは兵庫県の指定文化財にしましょう」と言って、兵庫県指定有形文化財になったという。

 外に出ると、赤松則祐建立と伝わる宝篋印塔があった。

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則祐が建てた宝篋印塔

 その隣には、覚安尼の宝篋印塔がある。

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覚安尼の宝篋印塔

 則祐の二代後の満祐(みつすけ)は、嘉吉元年(1441年)、室町幕府6代将軍義教に疎んじられていると感じ、領地を召し上げられるのではと危機感を覚え、義教を京都で暗殺してしまう。満祐は、姫路市書写にあった坂本城に立て籠もり、幕府軍を迎え撃つが、攻め滅ぼされてしまう。嘉吉の変である。

 この嘉吉の変で、赤松惣領家は一度滅びてしまうが、長禄元年から二年(1457~1458年)にかけて、赤松家の遺臣が、室町幕府の密命を佩び、後南朝から皇位継承の印、三種の神器を奪うという荒業を行い、見事復活を遂げる。この時には、あろうことか後南朝の皇胤を殺害している。

 赤松惣領家の最終継承者、赤松祐高は、大名としての赤松家の滅亡後、浪人となって全国を流浪し、大坂の陣で豊臣方について大坂城に籠城する。大坂城落城後、城を脱出し、姫路市網干大覚寺に立て籠もり、戦うが、自害に追い込まれる。ここで武家としての赤松惣領家は滅亡する。

 こうして見ると、赤松家は破天荒というか、時代をかき回した無茶苦茶な一族である。播州に住んでいる人なら分かると思うが、これが播州人らしくて面白い。

 いつか赤松家のことを小説に書いてみたいという思いがある。

 そして、日産プリンス・グロリアに乾杯。

飾磨の天満宮

 亀山本徳寺の東側の南北道は、飾磨街道と呼ばれている。

 飾磨は、古くから港町として知られていた。江戸時代には、姫路の城下町に物資を搬出入する港として発展した。姫路の城下町から飾磨港までをつなぐ道が、飾磨街道である。

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飾磨街道

 今となっては面影もないが、帆船の像を戴いた「飾磨街道」の標示が、ここがかつて港への道だったことを示している。

 飾磨街道を南下すると、大型ショッピングモールのリバーシティー付近に出る。その東側に、恵美酒宮天満神社がある。

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恵美酒宮天満神社拝殿

 ここは、元々漁業の神である戎の神を祭っていたが、後に天神様である菅原道真を勧請して合祀するようになり、天満神社となった。

 抜群の詩才と博学を誇った菅原道真は、右大臣まで昇進するが、道真が醍醐天皇を退位させて自分の娘婿を皇位につけようとしているという左大臣藤原時平の讒訴により、醍醐天皇の怒りにふれ、大宰権師(だざいのごんのそち)に左遷される。

 道真が、京都から大宰府に向かう途中、当時津田の細江と呼ばれた飾磨の港に上陸したことから、飾磨は道真公ゆかりの地とされる。津田の細江は、現在の船場川河口付近である。

 道真は、大宰府で没するが、道真の没後、道真の政敵が次々と病死したり、皇居清涼殿が雷で焼失したりと、京では異変が続いたので、朝廷は、道真の祟りと怖れ、元々雷神を祭っていた北野の地に、道真を天神として祭る北野天満宮を建てる。

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天満神社と言えば牛

 以後、天変地異が起るたびに、天神様の祟りだと恐れられた。しかし、時代の推移と共に、怨霊としての道真は忘れられ、生前の学者としての才能から、学問の神様として崇められるようになった。

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恵美酒宮天満神社本殿

 私は、文学者が神として祭られた神社が好きだが、考えてみれば、あまりにも全国あちこちにあって珍しくない天満神社に祭られた菅原道真こそ、文学者の中で死後に最も顕彰された人なのかも知れない。

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恵美酒宮天満神社本殿背後の波の彫刻

 恵美酒宮天満神社の境内南側には、飾磨出身の大正時代の詩人、有本芳水(ありもとほうすい)の詩碑がある。ここは、かつて高瀬舟が往来し、姫路藩米蔵が並んでいたお堀の傍になる。

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有本芳水の詩碑

 詩碑には、

播磨はわれの父の国 播磨はわれの母の国

飾磨の海にともる灯の その色見れば泪ながるる

 という抒情詩が彫られている。

 詩碑から東に行った野田川近くに、有本芳水生家の碑がある。芳水の生家は無くなっているが、碑のある家の表札は、有本さんだった。

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有本芳水生家の碑

 芳水は、竹久夢二と親交があり、芳水の詩集の装丁画を夢二が描いたりしている。

大正ロマンの一時代を築いた一人である。

 恵美酒宮天満神社から西に行くと津田天満神社がある。

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津田天満神社

 当時風待ちの港であった津田の細江に、大宰府に向かう途中の道真が上陸し、休憩したゆかりで、天神が勧請され、ここに祭られることになった。

 道真公は、休憩時、敷物がないので、船のとも綱を敷物替わりにしたとされる。この神社の別名を綱敷天満宮という由来である。

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津田天満神社拝殿

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狛犬ならぬ狛牛

 永仁六年(1298年)に藤原親泰が奉納した「北野天神縁起絵巻三巻」は、全国で三番目に古い天神絵巻で、国指定重要文化財になっている。

 津田天満神社は、天正八年(1580年)の秀吉の英賀城攻めにより焼失したが、その後再建された。

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津田天満神社本殿

 津田天満神社の境内には、万葉歌人山部赤人を祀った、山部赤人神社がある。

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山部赤人神社

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 私は、山部赤人万葉歌人の中で最も好きなので、赤人が祀られているというだけでテンションが上がる。

 なぜここに赤人が祀られているかというと、「万葉集」巻第六、945番に、旅中の赤人が、都太(津田)の細江で風待ちのために停泊した時の歌があるからだ。

風吹けば 波かたたむと さもらひに 都太の細江に 浦隠り居り 

  風が吹けば、波が立つだろうから、待避するために、都太の細江の浦に隠れている、という歌である。

 赤人は、基本的に叙景歌しか歌わない。全国を旅して、見たままの風景を歌った歌人だ。単純な形をした歌が多く、読んでいて疲れない。

 菅原道真も、津田の細江のことを歌っている。

ほのぼのと 津田の細江の 水尾つくし まだ夜は深き 月の入り汐 

  全国に展開する天満神社の数を考えると、菅原道真公は、真に人々から親しまれ、恐れられた人だったのだろう。

 今後の史跡巡りで、天神様とは、何度もお会いすることになるだろう。