亀山本徳寺の東側の南北道は、飾磨街道と呼ばれている。
飾磨は、古くから港町として知られていた。江戸時代には、姫路の城下町に物資を搬出入する港として発展した。姫路の城下町から飾磨港までをつなぐ道が、飾磨街道である。
今となっては面影もないが、帆船の像を戴いた「飾磨街道」の標示が、ここがかつて港への道だったことを示している。
飾磨街道を南下すると、大型ショッピングモールのリバーシティー付近に出る。その東側に、恵美酒宮天満神社がある。
ここは、元々漁業の神である戎の神を祭っていたが、後に天神様である菅原道真を勧請して合祀するようになり、天満神社となった。
抜群の詩才と博学を誇った菅原道真は、右大臣まで昇進するが、道真が醍醐天皇を退位させて自分の娘婿を皇位につけようとしているという左大臣藤原時平の讒訴により、醍醐天皇の怒りにふれ、大宰権師(だざいのごんのそち)に左遷される。
道真が、京都から大宰府に向かう途中、当時津田の細江と呼ばれた飾磨の港に上陸したことから、飾磨は道真公ゆかりの地とされる。津田の細江は、現在の船場川河口付近である。
道真は、大宰府で没するが、道真の没後、道真の政敵が次々と病死したり、皇居清涼殿が雷で焼失したりと、京では異変が続いたので、朝廷は、道真の祟りと怖れ、元々雷神を祭っていた北野の地に、道真を天神として祭る北野天満宮を建てる。
以後、天変地異が起るたびに、天神様の祟りだと恐れられた。しかし、時代の推移と共に、怨霊としての道真は忘れられ、生前の学者としての才能から、学問の神様として崇められるようになった。
私は、文学者が神として祭られた神社が好きだが、考えてみれば、あまりにも全国あちこちにあって珍しくない天満神社に祭られた菅原道真こそ、文学者の中で死後に最も顕彰された人なのかも知れない。
恵美酒宮天満神社の境内南側には、飾磨出身の大正時代の詩人、有本芳水(ありもとほうすい)の詩碑がある。ここは、かつて高瀬舟が往来し、姫路藩の米蔵が並んでいたお堀の傍になる。
詩碑には、
播磨はわれの父の国 播磨はわれの母の国
飾磨の海にともる灯の その色見れば泪ながるる
という抒情詩が彫られている。
詩碑から東に行った野田川近くに、有本芳水生家の碑がある。芳水の生家は無くなっているが、碑のある家の表札は、有本さんだった。
芳水は、竹久夢二と親交があり、芳水の詩集の装丁画を夢二が描いたりしている。
大正ロマンの一時代を築いた一人である。
当時風待ちの港であった津田の細江に、大宰府に向かう途中の道真が上陸し、休憩したゆかりで、天神が勧請され、ここに祭られることになった。
道真公は、休憩時、敷物がないので、船のとも綱を敷物替わりにしたとされる。この神社の別名を綱敷天満宮という由来である。
永仁六年(1298年)に藤原親泰が奉納した「北野天神縁起絵巻三巻」は、全国で三番目に古い天神絵巻で、国指定重要文化財になっている。
津田天満神社は、天正八年(1580年)の秀吉の英賀城攻めにより焼失したが、その後再建された。
津田天満神社の境内には、万葉歌人山部赤人を祀った、山部赤人神社がある。
私は、山部赤人が万葉歌人の中で最も好きなので、赤人が祀られているというだけでテンションが上がる。
なぜここに赤人が祀られているかというと、「万葉集」巻第六、945番に、旅中の赤人が、都太(津田)の細江で風待ちのために停泊した時の歌があるからだ。
風吹けば 波かたたむと さもらひに 都太の細江に 浦隠り居り
風が吹けば、波が立つだろうから、待避するために、都太の細江の浦に隠れている、という歌である。
赤人は、基本的に叙景歌しか歌わない。全国を旅して、見たままの風景を歌った歌人だ。単純な形をした歌が多く、読んでいて疲れない。
菅原道真も、津田の細江のことを歌っている。
ほのぼのと 津田の細江の 水尾つくし まだ夜は深き 月の入り汐
全国に展開する天満神社の数を考えると、菅原道真公は、真に人々から親しまれ、恐れられた人だったのだろう。
今後の史跡巡りで、天神様とは、何度もお会いすることになるだろう。