亀山本徳寺 後編

 亀山本徳寺本堂に渡り廊下で接続する中宗堂は、国登録有形文化財である。

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中宗堂

 中宗堂には、浄土真宗の中興の祖である蓮如が祀られている。華麗な祭壇である。蓮如の時代に、浄土真宗は日本中、特に北陸に広まることになる。

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蓮如を祀る祭壇

 本堂から、渡り廊下を通って北に行くと、大広間がある。

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本堂から大広間への渡り廊下

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大広間の正面

 大広間の前には、永禄九年(1566年)の銘のある梵鐘がある。英賀御堂の時代から伝わる梵鐘である。

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梵鐘

 大広間に入ると、見事な書院造の座敷になっている。

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大広間

 大広間奥には、英賀御堂時代の鬼瓦が展示されている。これも永禄九年(1566年)の作である。作者の宗右衛門は、英賀城落城後、秀吉に重用され、瓦大工棟梁として、姫路城を始め数々の寺社城の建築に携わる。

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英賀御堂時代からの鬼瓦

 額に「王」とあるところからして、閻魔大王だろうか。なかなか迫力ある瓦だ。現代の漫画にでも出てきそうなデザインで、とても戦国時代の作とは思えない。

 天井には、たつの市揖保川町にある永富家出身の鹿島守之助の娘・石川ヨシ子が描いた格天井画がある。

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格天井画

 なかなか細密に描かれた画である。鹿島守之助は、鹿島建設の中興の祖だが、亀山本徳寺の信徒総代を務めたこともあった。

 娘の石川ヨシ子が、平成3年に、本徳寺格天井画の損傷が著しいことを知り、父の供養のため、修復を発願した。

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花頭窓

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欄間

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付書院

 大広間には、その他にも、付書院や欄間など、見所が多い。

 大広間と庫裏の間には、大玄関がある。亀山本徳寺の客を迎える場所である。

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大玄関

 大事なお客を迎える時だけ使われ、普段は閉鎖されているのだろう。

 庫裏は、日常的に寺務で使用している建物である。

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庫裏

 大広間に隣接して、大広間北殿がある。

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大広間北殿

 大広間北殿に入ると、昭和51年に関保壽という画家が描いた襖絵が広がる。

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大広間北殿の襖絵

 襖絵は、色があせている。描かれた当時の色彩が見たいものだ。

 亀山本徳寺は、おそらく兵庫県浄土真宗の寺としては、最大級のものだろう。

 日本という国では、建物はすぐに潰されて建て直される。古くから残る建物は、文化財として優れているか、宗教施設として信仰を集めているかのどちらかだ。

 英賀御堂の時代から現代まで、変わらぬ信仰を集めている亀山本徳寺を拝観して、人間の一種の執念のようなものを感じた。

 最終的に残ったのは、信長でも秀吉でもなく、英賀城の時代から現代まで続く亀山本徳寺であった。

 

亀山本徳寺 前編

 姫路市飾磨区亀山にある亀山本徳寺は、浄土真宗本願寺派の寺院である。元々英賀城内にあった一向宗の寺院、英賀御堂の後身である。

 英賀の地は、15世紀の蓮如の時代に、一向宗の信仰が広がり、城主の三木氏も門徒となった。土塁に囲まれた英賀城は、城というより一向宗門徒自治する都市であった。その中にあった寺院が英賀御堂である。

 信長は、大坂の石山本願寺を中心とする一向宗門徒との間で、10年に渡る全面戦争を行った。播磨の一向宗の拠点英賀城も、信長軍の攻撃するところとなった。天正八年(1580年)の秀吉の英賀城攻略により、英賀の一向宗門徒は信長に降伏した。

 秀吉は、英賀御堂を解体し、寺を亀山の地に移した。それが現在の亀山本徳寺である。

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亀山本徳寺

 徳川の治世になり、本願寺が東西に分裂した時、東本願寺派は、姫路市船場船場本徳寺を建てた。亀山本徳寺は、西本願寺派である。

 ここは広壮な寺である。まず、大門から境内に入る。

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大門

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大門の彫刻

 大門から這入ると、まず右手に太鼓楼がある。この太鼓楼は、17世紀中葉の建築と言われている。

 太鼓楼は、元々、外敵を素早く発見し、味方に知らせるための太鼓を備えた見張り台である。英賀城にもこれに似た太鼓楼が備え付けられ、近づく敵を見張っていたことだろう。

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太鼓楼

 太鼓楼は、平成に入って修復され、今の鮮やかな姿になった。

 境内の南端には、経堂がある。様々なお経を収めた建物だったのだろう。

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経堂

 亀山本徳寺の本堂は、兵庫県下最大の寺院建築物である。その巨大な伽藍には息を呑む。

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本堂

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大広間への渡り廊下から見た本堂

 亀山本徳寺本堂は、18世紀中葉の建築である。元々は、京都の西本願寺の北集会所の建物だったのを、明治6年(1873年)にこの地に移築したものらしい。

 この建物は、西本願寺北集会所時代には、新撰組が屯所として使っていた。実は新撰組ゆかりの建物だ。

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本堂廊下

 廊下も広々として涼しい。本堂の周囲を巡る廊下を進むと、新撰組隊士がつけたとされる、刀傷のある柱がある。

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新撰組入刀痕跡柱

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 本堂の室内は、広い座敷である。奥に内陣がある。

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本堂座敷

 内陣の前面の彫刻は、極彩色である。

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内陣

 内陣奥には、ご本尊の阿弥陀如来像が祀られている。

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内陣の彫刻

 秀吉は、一向宗門徒自治都市だった英賀城を解体し、中心勢力だった英賀御堂を亀山に移した。黒田官兵衛から姫路城を得た秀吉は、城下町姫路を作り、一向宗門徒も城下町の機能の一部に組み入れた。そう思えば、秀吉は、今の姫路の元を作った人なのかも知れない。

 いずれにしろ、西播磨の人々にとって、天正八年の秀吉の英賀城攻略は、時代を画する出来事だったに違いない。

英賀神社

 JR姫路駅の西隣の駅は、JR英賀保(あがほ)駅である。英賀保駅の南側は、英賀と呼ばれる地域である。

 「播磨国風土記」によれば、播磨国ヤマト王権支配下に入る前の同国の支配者は、伊和大神という神様であった。伊和大神の御子である英賀彦、英賀姫は、伊和大神の命により、現在の英賀地区を本拠とし、播磨灘沿岸地域の開拓を行った。伊和大神は、出雲大社の祭神・大国主命と同一神とも言われるが、よく分かっていない。英賀の地名の由来は、英賀彦、英賀姫の名前から来ている。

 英賀神社は、英賀彦神、英賀姫神を祭神とする神社である。

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英賀神社鳥居と神門

 英賀の地域が発展するきっかけとなったのは、赤松氏が室町時代初期に英賀城を建ててからである。赤松氏の跡を継いで英賀城主となった三木通近は、嘉吉三年(1443年)に、英賀神社に天満天神、八幡大神春日大神を勧請し、合祀した。その後、英賀神社は、歴代英賀城主三木氏の崇敬が厚かった。

 三木氏は、英賀城を整備拡張した。英賀城は、一時御着城、三木城と共に、播磨三大城と称された。英賀神社は、今はなき英賀城の最北端に位置し、神社境内には、英賀城の土塁跡が残る。

 私が訪問した時は、拝殿が新築中であった。一度拝殿が完成してしまえば、あと数百年はこんな光景も見られない訳だから、幸運だったのかも知れない。

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新築中の拝殿。

 英賀神社には、国指定重要文化財である、正中二年(1325年)銘の梵鐘がある。公開はされていない。

 本殿の横には、司馬遼太郎歴史小説播磨灘物語」の文学碑が建っている。「播磨灘物語」は、黒田官兵衛を主役にした小説である。数年前のNHK大河ドラマ軍師官兵衛」の原作になった。

 天正五年(1577年)、英賀の地で、毛利方の三木氏を応援する毛利軍と、織田方の小寺孝高(黒田官兵衛)の間で合戦が行われた。英賀合戦である。黒田官兵衛は、奇襲攻撃を行い、自軍の10倍の兵力を持つ毛利軍を撃退した。これが、英賀城滅亡の呼び水になった。

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司馬遼太郎播磨灘物語」文学碑

 英賀城は、天正八年(1580年)に信長麾下の羽柴秀吉軍により攻略される。この時に、英賀神社も英賀城と共に焼亡する。しかし、地元の人の崇敬厚く、すぐに復興される。

 この時、英賀城主三木通秋の弟が林田に逃亡して、林田の大庄屋になったのは、「林田」の記事で書いたとおりである。

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英賀神社本殿

 城が滅んでも、昔から崇敬されている神社は残るものである。英賀神社も、時代時代の支配者に関わらず、地元の崇敬を集め続けている。

 境内北側には、英賀城の土塁跡がある。

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英賀城土塁跡

 神社の境内を抜けて、北に行くと、矢倉公園がある。公園には、英賀城の石塁が復元されている。矢倉公園は、かつての英賀城の土塁の外にある。この場所に城があったわけではない。

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英賀城石塁の復元

 英賀保駅から東に行くと、付城という地名がある。三木通秋が、秀吉軍に対抗するため、英賀城の東に付城(出城のようなものか)を作ったという説と、秀吉が英賀城攻略のために付城を作ったという説と、2つの説がある。

 JR英賀保駅の東側にある、付城交差点から東南に行くと、付城の関門西堀之跡がある。

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関門西堀之跡のある地蔵尊

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 関門西堀之跡の背後の巨岩が気になる。当時の石垣の名残だろうか。

 英賀の地域は、本願寺教団が一向宗の信仰を広めた地域である。英賀城主の三木氏も一向宗門徒であり、毛利氏と同盟関係にあった石山本願寺顕如が、信長追討の檄を飛ばした時、呼応して織田軍と戦い、滅ぼされた。

 当時の英賀城内は、一向宗門徒による一大宗教都市の様相を呈していた。今となっては、JR英賀保駅周辺は、主に神戸大阪方面に新快速で通勤する人たちのベッドタウンとなっている。

 英賀地区で、当時の血みどろの時代から現代まで残ってる施設は、英賀神社くらいなものだろう。

 やはり、地元の神社は大事にすべきである。

太山寺、野磨駅家跡

 有年から国道373号線を北上し、兵庫県赤穂郡上郡町に入る。上郡町は、兵庫県で最も西の自治体である。隣は岡山県である。

 上郡町西部の高山という地域に、山上の寺院がある。西高野と呼ばれる、高野山真言宗太山寺である。

 ここは、奈良時代行基が開いた古刹で、空海護摩堂を建て、一時は33坊が甍を並べて隆盛を極めた。

 しかし、戦国時代に尼子氏の引き起こした兵乱により、灰燼に帰した。今は本堂を含めて3坊があるに過ぎない。

 太山寺は、標高約300メートルの山上にある。この山は、別荘地になっていて、山上まで道が整備されている。細い、曲がりくねった道である。

 この道で、スイフトスポーツは、水を得た魚のように走った。対向車とすれ違うのがやっと、という山道では、ZC33Sのような軽量コンパクトで適度なパワーの車の独壇場である。

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山上のワインディング

 思う存分ZC33Sのリニアなハンドリングを楽しむことが出来る。この道を走って、私はZC33Sの特性がようやく体得できてきた。まさに掌の中でクルマを操る感覚である。

 この道では、日産GT-RやスバルWRX STIのような超弩級では、持て余してしまうだろう。高回転でパワーが炸裂する車では、高回転までエンジンを回す前に次のコーナーが来てしまう。ZC33Sのように、低中速で分厚いトルクが出るエンジンは、このような道に丁度良い。

 6ATも、シフトダウンは素早い。2速から3速のシフトアップにタイムラグがあるが、基本的に常時2速で走れる。エンジンもターボエンジンとは思えない反応の良さだ。

 まさに気分はヒルクライムである。

 そうして、あっという間に山上に着いた。

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太山寺本堂

 太山寺本堂の建物は新しい。本堂には、兵庫県指定文化財の鰐口が吊るされている。応永十九年(1412年)に寄進されたものである。

 太山寺には、ミニ八十八か所霊場がある。

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ミニ八十八か所霊場

 ここを回れば、四国八十八か所を巡ったことに匹敵する霊験が得られるのだろうか。第一番霊場霊山寺が本堂のすぐ近くにある。

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ミニ第一番霊場霊山寺

 私の家の宗派は真言宗である。弘法大師空海真言密教は、私に親しみのあるものである。いずれ、空海についても書く機会があるだろう。見上げれば、錫杖を持った修行大師の像があった。

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修行大師像

 缶チューハイが供えられているのもご愛敬である。宇宙の全現象を大日如来の命の現れと見る真言密教の思想からしたら、私もスイフトスポーツも修行大師像も缶チューハイも、この間のちょっとした失敗も憎たらしい人間もいつかやってくる死も、全て大日如来の化身である。この考え方を象徴化した図像が胎蔵曼荼羅である。空海は全てを肯定してくれる。同行二人、今日も空海はどこかで人々を見守っている。

 本堂から奥に行くと、金剛院がある。

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太山寺金剛院

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光明真言百万遍

 金剛院の中には、光明真言百万遍塔があった。真言とは、法身仏(宇宙そのもの)大日如来の放つ言葉だとされている。どうやら大日如来に象徴される宇宙は、梵語サンスクリット語)を使うらしい。

 さて、山上から下りて、上郡町の落地(おろち)という地域に行く。ここには、古代の駅である、野磨駅家(やまうまや)跡がある。国指定史跡になっている。

 以前、布勢駅家の記事で説明したが、奈良時代に国が整備した官道には、16㎞ごとに駅家と呼ばれる宿泊施設があった。山陽道は、主要道路だったので、8㎞ごとに駅家があった。

 落地からは、野磨駅家跡が発掘された。全国で、駅家跡と認定された遺跡は、この野磨駅家跡と布勢駅家跡の2つしかない。西播磨に2つの駅家跡があるのは、出来すぎのような気がする。

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野磨駅家飯坂遺跡(後期駅家)

 野磨駅家は、前期と後期に分かれる。前期駅家跡は、八反坪遺跡と呼ばれ、後期駅家跡は、飯坂遺跡と呼ばれる。

 前期駅家は、掘立柱(地面に直接柱が立てられた)で造られた茅葺の駅家である。後期駅家は、礎石が据えられた白壁瓦葺の豪華な駅家である。

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後期野磨駅家

 後期駅家跡は、発掘が終わり、今は草むらになっている。当時そこに建っていた建物の名称を表示した看板が草の中に立つのみである。

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野磨駅家正殿跡

 この野磨駅家、驚くなかれ、清少納言枕草子」に出てくる。「枕草子」第225段である。

山(野磨)の駅は、あはれなりしことをききおきたりしに、またもあはれなることのありしかば、なほ取り集めて、あはれなり。 

  どうやら、野磨駅家には、「あはれ」なことが2回あったようで、それが都へも聞こえていたようだ。

 一つ目の「あはれ」は、「興味深いこと」を指す。当時読まれていた、「今昔物語集」第14巻に、その話が出てくる。

 金峯山の転乗法師という僧侶は、「法華経」を記憶しようと勉強し、6巻までは覚えられたが、7,8巻がどうしても覚えられない。転乗は、一生懸命修行したが、ある時夢を見た。夢に聖人が出てきて、転乗にこう言った。

「お前は、前世が野磨駅家に住んでいた毒蛇だった。ある時お前は、駅家に泊まった僧侶を食べようとしたが、僧侶が「法華経」を唱えだしたので、聞き入ってしまって、食べるのを止めた。僧侶が6巻まで唱え終わった時、夜が明けたので、僧侶は7,8巻を唱えずに駅家から出て行った。だからお前は7,8巻を覚えられないのだ。しかし、お前は、あの時に「法華経」を聞き入ったから、毒蛇から人間に生まれ変わることができたのだ」

 転乗は、その後も修行に明け暮れ、嘉祥二年(849年)に亡くなった。

 清少納言は、この話を一つ目の「あはれなりしこと」と書いたのだろう。次の「またもあはれなることのありしかば」とは何だろう。この「あはれ」は「気の毒なこと」を指す。

 当時の実力者、内大臣藤原伊周(ふじわらのこれちか)が、花山法皇に弓を放ったことで処分を受け、大宰府権師(ごんのそち)に左遷されることとなった。長徳の変と呼ばれる、長徳二年(996年)の政変である。伊周は、妹の中宮定子の邸に匿われているところを捕まり、大宰府に護送される。その途中、野磨駅家に宿泊したとされる。

 中宮定子は、清少納言が仕えた人である。清少納言も、邸内に匿われる伊周をみかけたことがあっただろう。

 野磨駅家のある場所は、落地(おろち)という地名だが、「今昔物語集」の説話があったから、こういう地名がついたのか、それとも本当に毒蛇がいたのか、興味は尽きない。

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前期野磨駅家跡

 前期野磨駅家のあった八反坪遺跡は、飯坂遺跡の少し南の田んぼの地下にある。今は説明板が立つのみである。昔は、この田んぼのあった場所に山陽道が通り、駅家があったのだ。

 日差しは強いが、田んぼの上を夕方の涼しい風が渡る。昔ここに毒蛇が住んで僧侶を襲おうとし、藤原伊周が悲嘆に暮れたことを想像すると、心が少し楽しくなる。

 

有年 後編

 有年原・田中遺跡公園から北を見ると、蟻無山という小高い丘がある。この山の上に、蟻無山古墳がある。築造は5世紀前半。第16代仁徳天皇の時代か。

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蟻無山

 70メートルほどの高さの丘なので、登山と言うほどのこともない。頂上には、県史跡の蟻無山1号墳があるが、ここに古墳があると事前に知らなければ、気づかないほど自然と一体化している。

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蟻無山1号墳

 この古墳の形式は、造出し付き帆立貝形古墳と言われている。なぜそう言われるのかは、説明板を見た方が早い。

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蟻無山1号墳の説明板

 円丘部に小さな突出部が付いた形が、上から見るとホタテ貝の貝殻のような形だから、このような名前がついたらしい。

 しかし、古墳全体が風化して自然と一体化しているので、どこが突出部なのかは写真では分かりにくい。

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手前が突出部

 上の写真の手前が突出部で、奥が円丘部である。

 ここが古墳だという痕跡は、周辺に散らばる川原石に見ることが出来る。

 古墳と言うと、土で作った丘に木が生えているというイメージがあると思うが、当時の古墳は、一面に石が葺かれていた。「有年 前編」の記事にあった、1号墳をイメージしてもらったらいい。

 蟻無山1号墳の周りには、丸みを帯びた川原石が転がっている。千種川川原石をここまで運んで、古墳表面に葺いたのであろう。

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周囲に散らばる葺石

 この古墳が造られた当時は、古墳全体の表面に石が葺かれていたのだ。

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蟻無山1号墳の円丘の上。

 さて、蟻無山を下りて、有年の遺跡から発掘された遺物を展示する有年考古館に向かう。しかし、残念ながら休館日であった。

 ここは、地元の医師で考古学者だった松岡英夫が、自らが収集した遺物を展示するため、昭和25年に独力で設立した考古館である。平成23年以降は、赤穂市が管理している。

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赤穂市立有年考古館

 有年考古館は、「日本一小さな考古館」と言われている。

 有年考古館から西に行き、橋を使って千種川を渡り、少し北に行くと、地蔵立像板碑がある。

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地蔵立像板碑

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 このお地蔵様が草に埋もれているのを、松岡英夫が発見し、地元有志の協力で今のように祀られるようになった。兵庫県指定重要文化財である。延文三年(1358年)の銘がある。

 ここから更に北に行くと、祇園塚と呼ばれる野田2号墳がある。墳丘の盛り土がほとんど失われているので、本来の規模や形は不明である。古墳時代後期築造の古墳である。

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野田2号墳

 この古墳の特徴は、玄室に至る羨道の入り口に閉塞石があることである。入るべからずと威嚇されているようだ。

 閉塞石を乗り越えて、羨道に入ると、玄室と羨道の間に間仕切り石がある。

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羨道から玄室を見る。

 更に「入るな」と警告されているみたいだ。さすがに玄室内には入らなかったが、写真は撮った。

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玄室内

 玄室の奥は、巨大な石が積まれて壁が造られている。写真を撮った時には気づかなかったが、こうして見ると、玄室内に蜘蛛が沢山いたことが分かる。

 野田2号墳は、山際の墓地の隣にある。私が訪れた時には、すぐ近くに野生の鹿がいた。鹿は私を見て山の中に逃げたが、しばらく山中から鹿の警戒するような声が聞こえて来た。

 この古墳も既に鹿や猪が活動する自然界の一部になってしまったかのようだ。人間の活動の痕跡が、時間の経過とともに風化して、最後は自然に紛れてしまう。それはそれで乙なような気がする。 

有年 前編

 赤穂市北部の国道2号線沿いに、有年(うね)という地域がある。ここは、2つの古代遺跡が発掘された地域である。遺跡は、今は公園となっている。

 そのうちの一つが、東有年・沖田遺跡公園である。

 ここは、縄文時代(約4000年前)から室町時代(約600年前)にかけての集落遺跡である。

 東有年・沖田遺跡公園からは、弥生時代後期の竪穴住居7棟、古墳時代後期の竪穴住居22棟と高床建物1棟の跡が見つかった。

 公園南側には、弥生時代の竪穴住居が2棟復元されている。

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手前が2号住居、後ろが5号住居

 その内5号住居と言われる建物は、弥生時代後期(西暦100年ころ)のものとしては、一般的な大きさである。2号住居は、直径12メートルで、当時としてはひときわ大きい。有力者が住んでいたと思われる。

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2号住居入口

 2号住居の中に入ると、中央に4本の柱が立っていて、建物を支えている。その中央に、炉がある。土器をここに据えて、煮炊きをしたのであろう。

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2号住居の内部

 私は、不思議とこの柱を見て、神殿のような厳かさを感じた。木には、人を圧する何かがある。

 新宮宮内遺跡の住居は、約2100年前のもので、この住居は約1900年前のものである。200年の間の建物の進歩はあまり見られないが、大きさではこの2号住居は新宮宮内遺跡の竪穴住居より圧倒的に大きい。

 公園の北側には、古墳時代後期の建物が復元されている。概ね1500年前の建物の復元である。

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古墳時代の建物群

 弥生時代の竪穴住居と異なるのは、円形ではなく、方形であるということだ。

 最大の違いは、内部に入ると分かった。

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4本の柱と竈

 円形よりも方形の建物の方が、スペースを有効に使うことが出来る。方形に屋根を形作るために、4本の柱が屋根を支えている。

 そして、弥生時代との最大の違いは、竈の存在である。建物の北側に竈が据えられている。

 弥生時代の竪穴住居のように、中央に炉があると、スペースが使いづらい。この古墳時代の建物のように、端に竈があると、あとのスペースは自在に使える。

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建物北側に据えられた竈

 竈中央の穴に須恵器や土器を据えたのだろう。竈の構造部の半分は建物の外に出ていて、竈からでた煙は、外に排出されるようになっている。古代の生活革命である。

 昔、竈には竈の神様がいると言われていたが、古代人がそう思ったのも何となく分かる気がする。

 さて、古墳時代の集落にあった高床建物は、集落にとって大事な食糧を保管する場所である。

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高床建物

 高床にすれば、湿気が籠らず、害獣も入りにくい。中は丸太敷で、どことなく南洋の建物のようである。

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高床建物の内部

 日本人には、南洋の民族の血が混じっていると言われているが、それも誇らしい気がする。

 さて、次なる目的地、有年原・田中遺跡公園に行く。この遺跡では、西暦100年ころの有力者の墳丘墓が2つ発掘された。今、それが復元されている。

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1号墳

 1号墳は、円形で、その周囲に周溝が掘られている。墳丘に至るために、陸橋が造られている。

 また、墳丘部の西側に、方形の突出部が付けられている。

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墳丘部に付いた突出部

 この突出部は、祭祀を行う場所だったらしい。前方後円墳の前方部も、祭祀を行った場所である。ということは、この遺跡の突出部付き墳丘墓は、前方後円墳の祖型と言えるのではないか。

 前方後円墳は、大和盆地が発祥の地である。今の皇室と日本国政府につながるヤマト王権が、前方後円墳を最初に作ったと思われる。有年の墳丘墓が前方後円墳の祖型ならば、有年付近にいた勢力が大和盆地に進出して、ヤマト王権になったと考えられないだろうか。こういう風にいくらでも想像をたくましく出来るところが、文字史料がない古代史の面白いところだ。

 1号墳の墳丘部の上には、当時死者を弔うために備え付けられていた装飾壺と装飾器台が復元されている。

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墳丘部の上の特殊器台

 写真のように、装飾器台の上に装飾壺を載せている。装飾器台、装飾壺のセットは、西暦150年~200年ころに、特殊器台、特殊壺のセットに発展し、吉備地方(岡山周辺)の墳丘墓に飾られるようになる。特殊器台、特殊壺は、最終的に大和盆地の古墳に飾られるようになり、更に埴輪に発展する。

 古事記日本書紀の神武東征伝承では、神武天皇は、大和盆地に入る前に、吉備地方を拠点としたとされている。特殊器台、特殊壺が、吉備から大和に伝わったことと神武東征伝承は一致する。

 丁度、西暦150年から200年の間は、「魏志倭人伝」が伝える倭国大乱のあったころである。

 魏の使いが倭国で聞いた倭国大乱とは、吉備の勢力が大和盆地を征服した時の戦いのことではなかったか。

 前方後円墳と特殊器台、特殊壺の祖型のある有年は、どういう勢力が当時いたかは分からないが、こののち約500年続く墓の流行の発祥の地とは言っていいのかも知れない。

 文字がない時代のことを、発掘された物だけから推理するのも面白い。

 

林田

 姫路市の北西部に、林田という地域がある。昭和42年に姫路市に合併されるまで、林田町は独立した自治体だった。

 ここは、江戸時代に林田藩建部家が領していた。石高は1万石で、小藩である。小藩ながら、林田藩建部家は、元和三年(1617年)から明治まで領地を維持し続けた。

 姫路市林田町中構に、林田藩の大庄屋であった、三木家の旧居がある。三木家住宅である。

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三木家住宅長屋門

 三木家は、元々赤松家の家来で、英賀城の城主であった。天正八年(1580年)、秀吉が英賀城を攻め落とした時、城主の弟の三木定通が林田に逃亡して、帰農した。

 三木家は、聖岡に家を建てたが、建部政長が大坂の陣の功により、元和三年に林田藩主となった時に、聖岡に陣屋を建てたため、三木家は今の三木家住宅のある地に家を移した。

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三木家住宅主屋

 現存する三木家住宅は、17世紀中ごろの建築と考えられている。老朽化していた三木家住宅は、平成10年から平成21年まで修復工事が行われ、平成22年7月から一般公開されている。主屋の屋根は、茅葺と瓦葺が混在する珍しいものだ。

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土間の天井

 土間の天井には、太い梁が交差する。天井には、火災防止のため、梁に縄を巻いて、漆喰に砂を混ぜたものを塗った仕掛けが成されている。

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表台所

 表台所から室内に入ると、地元の螺鈿の作家による作品展示会が開かれていた。また、室内には、林田藩時代に数十年間焼成されたが、今は作られていない林田焼が展示してあった。

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林田焼

 この林田焼、作られた期間が短いので、現存するものが少なく、幻の焼き物とされている。第三代藩主建部政宇(まさのき)が地場産業奨励のため、窯を作って焼成させたという。一説によると、京焼の野々村仁清が林田に来訪して指導したと言われている。そういえば、どことなく京焼の風味がある。

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三木家住宅庭園

 さて、三木家住宅から北に行くと、藩校敬業館がある。寛政六年(1794年)、林田藩七代目藩主建部政賢により建てられたが、文久三年(1863年)に火災で焼失。その後すぐに再建された。兵庫県内に唯一残る藩校の建物である。

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藩校敬業館

 ここで林田藩士の若者が勉学に励んでいた。今は、敬業館のすぐ隣に林田中学校があり、現代の若者が勉学に励んでいる。

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敬業館玄関

 藩校の北側には、林田藩の陣屋跡のある聖岡がある。

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聖岡

 陣屋とは、一般的に三万石以下の城を持たない大名が藩庁として使った屋敷のことである。

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林田陣屋復元図

 林田藩は城を持てない小藩だったので、陣屋で執務をした。今林田藩陣屋跡は、梅が植えられて梅林になっている。

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陣屋跡の梅林

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林田藩陣屋跡

 陣屋の痕跡として、石垣が残るのみである。

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林田藩陣屋跡石垣

 陣屋跡の東隣には、歴代建部侯を祀っていると思われる建部神社がある。

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建部神社

 江戸時代の西播磨は、姫路藩龍野藩赤穂藩がほとんどの領地を占めていた。そのはざまで、元和から廃藩置県まで、250年に渡り藩主として生き延びた林田藩建部家は、知恵の豊かな家だったのではないか。

 林田藩陣屋跡は、全く観光地化されていない。週末や祝日に、観光でここを訪れる人は皆無に等しいだろう。地元も観光資源として売り出そうともしていない。だからこそ、しみじみと過去の林田藩のことに思いを馳せることができる。

 歴史は、静けさの中で感じたいものだ。