三之堂から更に参道を進むと、見えてくるのが、鐘楼である。
鐘楼は、元弘二年(1332年)の建築。鐘は元亨四年(1324年)の再鋳とされる。鐘楼は、国指定重要文化財である。
鎌倉時代後期の様式を残し、鐘楼としては、兵庫県下最古の遺構である。
次に見えてくるのは、金剛堂である。金剛堂のあった場所で、性空上人は、金剛薩埵とお会いになり、密教の印を授けられたという。
食堂に展示してあった、金剛薩埵像は、金剛堂のご本尊である。
手前にある長い建物は、護法堂拝殿である。若いころの弁慶がここで勉強したことから、弁慶の学問所とも呼ばれている。
今の護法堂拝殿は、天正十七年(1589年)の建立である。
護法堂拝殿と向かい合うように建っているのが、護法堂である。
性空上人が書写山で修行中、常に上人の傍で修行を助けた乙天護法童子と若天護法童子を、上人の没後、山の守護神として祀った。
乙天護法童子は不動明王の、若天護法童子は毘沙門天の化身とされ、容貌魁偉で怪力、神通力の持主とされる。
右が乙天社、左が若天社である。室町期の春日造りの社殿である。国指定重要文化財である。
どんなお寺に行っても、大体一つは神社様式の建物がある。その土地の神様を祀ったものである。
お寺を開くときに、その土地の神様に伺いを立て、お許しがあれば開山し、その代わりに土地の神様を寺の守護神として祀るのである。
乙天、若天は、今も圓教寺を護り続けている。
さて、等身大の性空上人像を祀るのが、開山堂である。今の開山堂は、寛文十一年(1671年)に再建されたものである。
性空上人像は、普段は公開されていないが、毎年春に御開帳され、見学することが出来る。
開山堂の軒下には、江戸時代初期の伝説的彫刻家、左甚五郎作と伝えられる力士像がある。
本来なら、力士像は、開山堂の四隅にあるべき筈だが、西北隅だけ力士像がない。
軒の重さに耐えかねて、北西隅の力士像だけ逃げたと伝えられている。
開山堂に入ると、御朱印帳に御朱印をもらう人たちが列をなしていた。今、世は御朱印ブームである。今でもお寺は様々な形で人々の気持ちを支え続けている。
開山堂の裏には、和泉式部の歌塚と伝えられる宝篋印塔がある。
和泉式部は、性空上人から教えを受けるために、圓教寺を訪れたが、女性歌人を厭った上人に居留守を使われ、会ってもらえなかったと伝えられる。
和泉式部が、
暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき 遥かに照らせ 山の端の月
という釈教歌(仏教を解釈する歌)をお堂に書きつけると、歌に感銘を受けた上人が返歌をしたそうだ。
歌意は、「私はこのままでは闇の世界から闇の世界に入ってしまうでしょう。どうか上人様、遥か遠くからでも、真理の光で私の足元を照らして導いてください」というところだろう。月の光は、仏教では真理の比喩としてよく使われる表現である。
とは言え、この歌塚は、天福元年(1233年)の銘があるもので、和泉式部の時代から200年も後のものである。和泉式部とどこまで関係があるかは分からない。
ただ、「拾遺和歌集」に収録されたこの歌を、和泉式部が詠んだことは間違いないだろう。
当時の性空上人は、花山院、円融院、藤原道長、藤原公任(「和漢朗詠集」の編者)などから尊信され、上京を促されたが、ついに書写山から出なかったと言われている。
私は和泉式部歌塚を観た縁で、家に帰って「和泉式部集」を読み返してみた。
当時の宮廷貴族の恋愛は、男が女の下に通い、夜を共にし、朝になると男が帰る、というものである。
和泉式部の歌の大半は、自分の下に通って来る男を待ちわびたり、疑ったり、懐かしんだり、男に見捨てられた自分を哀れんだりする歌である。徹頭徹尾「待つ女」の歌である。
待つ女である和泉式部が、教えを受けるために積極的に圓教寺を訪れたというのは、ちょっと信じ難い気もするが、一方で恋に疲れた和泉式部が、当時尊敬されていた性空上人に救いを求めたのもあり得る気がする。
真相は闇の中であるが、一代の女流歌人と一代の宗教家が、書写山を舞台に、仏教に関する和歌を交わしたというのは、日本の歴史の一場面として、あってもいいような気がする。