圓教寺拝観のクライマックスは、何といっても、大講堂、食堂、常行堂の三之堂である。
私が圓教寺に来るのはこれで5回目だが、いつ来ても三之堂の壮大さに圧倒される。
規模の大きさがなかなか写真では伝わらないが、装飾のない簡素な木造建築であるだけに、余計感動する。写真右から、大講堂、食堂、手前が常行堂である。この三つの木造建築を総称して三之堂と呼ぶ。
大講堂は、圓教寺の本堂に当たり、経の講義や議論を行う学問と修行の場であった。永延元年(987年)の創建以来、何度も災禍に見舞われた。現在の大講堂は、下層が永享十二年(1440年)に、上層が寛正三年(1462年)に建立されたものである。国指定重要文化財だ。
大講堂には、木像釈迦如来像と両脇侍像が祀られている。これも国の重要文化財である。
手前を歩く人と比べたら、伽藍の大きさが分かるだろう。圓教寺は文化財の宝庫だが、何故か国宝に指定されたものはない。
三之堂の真ん中に位置する食堂(じきどう)は、長大な建物である。
食堂は、修行僧の寝食のための寮として使われていた。現在の食堂は、寛正年間(1461~1466年)の建築とされる。現存する総二階建ての仏堂としては他に類例がなく、国内最大規模を誇る。国指定重要文化財である。
蔀戸と腰組で支えられた二階の縁が、美しい姿を見せてくれる。
食堂1階には、写経体験のためのスペースがあるが、蔀戸と円柱に挟まれたこの場所は、「ラスト・サムライ」でトム・クルーズと渡辺謙が会話するシーンで使われた。
食堂は、圓教寺の宝物を展示する宝物館としても使われている。
常行堂は、常行三昧(本尊阿弥陀如来像の周りを、弥陀の名を唱えながら回る修行)を行うための建物である。これも、国の重要文化財である。
常行堂の北側は楽屋と呼ばれる舞台付きの建物となっている。
この楽屋は、大講堂に向いている。大講堂の釈迦如来像に舞や劇を奉納するためのものだったのではないか。
光が当たって金色に輝く阿弥陀如来像を見て、昔の人は西方楽土を思ったのだろうか。
さて、食堂の中の宝物を見る。ここには、仏像などのさまざまな寺宝が展示されている。
天正年間に、秀吉は、黒田官兵衛の進言により、書写山に陣地を築く。圓教寺には、兵を収容する建物も多く、食糧の調達も容易だという理由かららしい。圓教寺は、2万7千石の寺領を持っていたが、全て秀吉に没収されてしまった。
恐らく、この食堂にも秀吉軍の兵士が駐屯していたことだろう。
また、圓教寺の薬師如来像と阿弥陀三尊像は、秀吉により近江国長浜に持ち去られ、今も長浜市の舎那院と知善院に祀られている。
様々な仏像などの展示品の中で、私の目を引いたのは、優美な金剛薩埵像である。
また、弘法大師空海が天長七年(830年)に大護摩供を行い、結願に護摩供の灰と炭を使って自ら作ったとされる手形が展示してあった。
天長七年と言えば、まだ圓教寺が開かれていない時である。天台宗の圓教寺であっても、空海の手形は寺宝になるということか。
また、圓教寺は、7歳から17歳まで、武蔵坊弁慶が勉学に励んだ場所と伝えられている。弁慶が使ったとされる勉強机も展示してあった。
食堂1階には、かつて圓教寺の開山堂で密教修法に使われていた書写塗りの大壇が展示してある。
この大壇は、応永三十年(1423年)に造られたものだが、秀吉により奪い去られ、最近まで行方不明であった。平成12年に無事書写山に戻り、平成23年まで実際に密教修法に使われていたらしい。
さて、三之堂に対面する形で、姫路藩本多家の霊廟が建っている。17世紀に姫路藩主だった本多家は、今の姫路の礎を築いた大名である。
元和三年(1617年)に姫路藩主となった本多忠政が、圓教寺復興に尽力したことは前に書いたが、ここには歴代藩主の忠政、政朝、政長、忠国と、忠政の父忠勝の5つの廟屋が建っている。
本多忠勝は、初代桑名藩主で、生前に姫路の地を踏んだことはなかった。元々桑名に墓があったが、忠政がこの地に改葬したらしい。
忠勝は、徳川四天王の一人で、家康の天下取りを支えた名将である。鹿の角の付いた兜で有名である。
私は、三河出身の猛将本多忠勝の墓が姫路にあることに、意外の感を持ったが、文殊菩薩が性空上人に、住めば六根が浄められると告げた書写山こそ、戦に明け暮れた忠勝が眠りにつく地に相応しいのではないかと思った。