宝林寺 円心館

 鎌倉時代末期から戦国時代にかけて、播磨の国はおろか、日本国を騒がせた武家・赤松氏。

 兵庫県赤穂郡上郡町河野原にある宝林寺は、赤松氏ゆかりの寺である。赤松則祐(そくゆう)が、備前国新田庄にて、雪村友梅に開山させて、臨済宗の寺院として創建した。
 火災で焼失した後、文和四年(1355年)に河野原に移し、赤松惣領家の氏寺とした。宝林寺は、赤松家と盛衰を共にし、今は真言宗の寺となっている。

 宝林寺にある円心館には、赤松円心赤松則村)の木像等の赤松氏ゆかりの品を展示している。

 円心館には、電話で見学を予約してから行かなければならない。自宅を出る直前に電話したが、幸い対応してもらえることになった。

 宝林寺は、智頭急行河野原円心駅の近くにある。宝林寺に着いて、真っ先に目に付いたのは、駐車場にとめられた、A30型日産グロリアである。

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A30型グロリア

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 グロリアは、スカイラインと共に、元々プリンス自動車が作った車である。プリンス自動車は、昭和41年に日産自動車と合併し、グロリア、スカイラインは日産の車になった。

 グロリアは、合併後、日産セドリックと兄弟車となった。写真のA30型グロリアは、3代目のグロリアである。1,2代目グロリアは、プリンス自動車が作ったが、3代目からは日産ブランドで売りに出された。しかし、3代目グロリアは、合併前からプリンス自動車が開発していたので、実質はプリンス・グロリアである。

 私が感心して眺めていると、宝林寺を管理していると思われる結構年配の方が、寺の中から現れた。さっきの電話の方である。グロリアは、この管理人のものであった。

 私が、グロリアについて質問すると、「この型のが好きでねえ。和歌山の方まで買いに行ったんですよ。エンジンはL型じゃなくて、G7ですよ」と誇らしげにいう。

 A30型グロリアは、1967年4月から1971年2月まで発売された。最初はプリンス製のG7型エンジンが搭載されたが、1969年11月のマイナーチェンジで、日産製のL20型エンジンに変更される。 マイナーチェンジ後のL20型エンジンは、70,80年代にスカイライン、セドリック、グロリア、ローレルなどに積まれ、日産の屋台骨となったエンジンだ。頑健だがあまり回らない眠たいエンジンで有名である。このグロリアは、どうやらマイナーチェンジ前のものらしい。

 G7型エンジンは、2000ccの直列6気筒エンジンである。当時プリンスは、4気筒1500ccのスカイラインをレースに出したが惨敗した。プリンスは、次のレースで勝つため、スカイラインの車体を強引に引き延ばし、グロリア用直列6気筒G7型エンジンを積んで、レース用改造モデル、スカイラインGTを開発した。このスカイラインGTが、第2回日本グランプリでポルシェ904とデッドヒートを演じたのは有名な話である。そして、スカイラインGTは、後のスカイラインGT-Rにつながっていく。

 つまり、目の前のグロリアが積むG7型エンジンは、日本自動車史上の画期となった伝説のエンジンなのである。

 ところで、G7型エンジンを作ったプリンス自動車のエンジニア達は、ゼロ戦のエンジンを作った中島飛行機の技術家達である。彼らは、ハコスカGT-RのS20エンジンも作った。GT-Rゼロ戦の血が流れていると言ったら言い過ぎか。

 私は、G7型エンジン搭載車にお目にかかったことに感激した。今やG7を積んだスカイラインGTは、中古で500万円ほどする。

 管理人は、「今も運転しますよ。でも今の車と違って、全部鉄で出来ているので車体が重くてねえ。」と子供のように嬉しそうに語っていた。

 さて、この管理人に案内されて、円心館に入る。

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円心館

 円心館には、兵庫県指定有形文化財の赤松三尊像が置いてある。

 赤松家を発展させた赤松則村(出家して円心と称した)、円心の三男則祐、則祐の娘で出家した千種姫(覚安尼)、宝林寺を開山した雪村友梅和尚の像がある。

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赤松円心

 赤松家は、村上天皇を祖とする源氏の武家集団である。元々佐用庄(現兵庫県佐用郡佐用町)の豪族であった。鎌倉時代末期の播磨の国は、「悪党」と呼ばれる、荘園を荒らす武装集団が跋扈していた。悪党は、それまでの1対1の戦いにこだわる武士と異なり、集団で一人を攻撃したり、後に「足軽」と呼ばれる、下半身に甲冑を着けない身軽な姿で戦ったり、それまでの戦法を変える存在だった。

 赤松円心は、悪党を傘下に収め、彼らの戦い方を取り入れ、足軽や雑兵を用いた戦法を始めた。

 円心は、護良(もりなが)親王が、鎌倉幕府追討の令旨を出した時、それに呼応して鎌倉幕府打倒のために挙兵し、京都まで攻め上り、幕府の西国支配の拠点・六波羅探題を攻め滅ぼした。

 しかし、建武の新政で、護良親王後醍醐天皇に排除されてからは、円心は、後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏についた。感状山城の記事で書いたが、円心は白旗山城に立て籠もり、足利尊氏を追討するために九州に向かう新田義貞軍を足止めした。これがなければ、足利尊氏は攻め滅ぼされていたかもしれない。

 つまり、赤松円心は、鎌倉幕府滅亡と室町幕府樹立の立役者である。こんな大物が、西播磨から出たことは誇らしい。

 円心の子・赤松則祐は、相生市にある感状山城に立て籠もり、白旗山城に籠城した円心と共に新田軍と戦った。

 円心の跡を継いだ則祐は、播磨、摂津、美作、備前4か国の守護大名となり、山名、一色、京極氏と共に、室町幕府四職の一人となる。幕政の中枢に入った。

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赤松則祐

 この宝林寺を建てたのも、則祐である。

 則祐の娘が覚安尼である。

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覚安尼像

 覚安尼像の隣に、宝林寺を開山した雪村友梅和尚像が並ぶ。

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雪村友梅和尚像

 これらの像は、今にも動き出しそうな生々しさに溢れていた。

 管理人によると、これらの像は、南北朝期に、慶派仏師が作ったものだそうだ。慶派仏師が、仏像ではなく、実在の人物の像を作ったということが、非常に珍しいらしい。

 管理人の話では、昭和51年に、文部省と兵庫県教育委員会の役人がこれらの像を見に来た時に、文部省の人は最初、「これは国宝にしてもいいです」と言ったという。しかし、円心像が後世に修復され、色も塗りなおされているのを知って、国宝・重要文化財には指定できないと言ったという。一緒に来ていた兵庫県教育委員会が、「それでは兵庫県の指定文化財にしましょう」と言って、兵庫県指定有形文化財になったという。

 外に出ると、赤松則祐建立と伝わる宝篋印塔があった。

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則祐が建てた宝篋印塔

 その隣には、覚安尼の宝篋印塔がある。

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覚安尼の宝篋印塔

 則祐の二代後の満祐(みつすけ)は、嘉吉元年(1441年)、室町幕府6代将軍義教に疎んじられていると感じ、領地を召し上げられるのではと危機感を覚え、義教を京都で暗殺してしまう。満祐は、姫路市書写にあった坂本城に立て籠もり、幕府軍を迎え撃つが、攻め滅ぼされてしまう。嘉吉の変である。

 この嘉吉の変で、赤松惣領家は一度滅びてしまうが、長禄元年から二年(1457~1458年)にかけて、赤松家の遺臣が、室町幕府の密命を佩び、後南朝から皇位継承の印、三種の神器を奪うという荒業を行い、見事復活を遂げる。この時には、あろうことか後南朝の皇胤を殺害している。

 赤松惣領家の最終継承者、赤松祐高は、大名としての赤松家の滅亡後、浪人となって全国を流浪し、大坂の陣で豊臣方について大坂城に籠城する。大坂城落城後、城を脱出し、姫路市網干大覚寺に立て籠もり、戦うが、自害に追い込まれる。ここで武家としての赤松惣領家は滅亡する。

 こうして見ると、赤松家は破天荒というか、時代をかき回した無茶苦茶な一族である。播州に住んでいる人なら分かると思うが、これが播州人らしくて面白い。

 いつか赤松家のことを小説に書いてみたいという思いがある。

 そして、日産プリンス・グロリアに乾杯。