太山寺、野磨駅家跡

 有年から国道373号線を北上し、兵庫県赤穂郡上郡町に入る。上郡町は、兵庫県で最も西の自治体である。隣は岡山県である。

 上郡町西部の高山という地域に、山上の寺院がある。西高野と呼ばれる、高野山真言宗太山寺である。

 ここは、奈良時代行基が開いた古刹で、空海護摩堂を建て、一時は33坊が甍を並べて隆盛を極めた。

 しかし、戦国時代に尼子氏の引き起こした兵乱により、灰燼に帰した。今は本堂を含めて3坊があるに過ぎない。

 太山寺は、標高約300メートルの山上にある。この山は、別荘地になっていて、山上まで道が整備されている。細い、曲がりくねった道である。

 この道で、スイフトスポーツは、水を得た魚のように走った。対向車とすれ違うのがやっと、という山道では、ZC33Sのような軽量コンパクトで適度なパワーの車の独壇場である。

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山上のワインディング

 思う存分ZC33Sのリニアなハンドリングを楽しむことが出来る。この道を走って、私はZC33Sの特性がようやく体得できてきた。まさに掌の中でクルマを操る感覚である。

 この道では、日産GT-RやスバルWRX STIのような超弩級では、持て余してしまうだろう。高回転でパワーが炸裂する車では、高回転までエンジンを回す前に次のコーナーが来てしまう。ZC33Sのように、低中速で分厚いトルクが出るエンジンは、このような道に丁度良い。

 6ATも、シフトダウンは素早い。2速から3速のシフトアップにタイムラグがあるが、基本的に常時2速で走れる。エンジンもターボエンジンとは思えない反応の良さだ。

 まさに気分はヒルクライムである。

 そうして、あっという間に山上に着いた。

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太山寺本堂

 太山寺本堂の建物は新しい。本堂には、兵庫県指定文化財の鰐口が吊るされている。応永十九年(1412年)に寄進されたものである。

 太山寺には、ミニ八十八か所霊場がある。

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ミニ八十八か所霊場

 ここを回れば、四国八十八か所を巡ったことに匹敵する霊験が得られるのだろうか。第一番霊場霊山寺が本堂のすぐ近くにある。

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ミニ第一番霊場霊山寺

 私の家の宗派は真言宗である。弘法大師空海真言密教は、私に親しみのあるものである。いずれ、空海についても書く機会があるだろう。見上げれば、錫杖を持った修行大師の像があった。

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修行大師像

 缶チューハイが供えられているのもご愛敬である。宇宙の全現象を大日如来の命の現れと見る真言密教の思想からしたら、私もスイフトスポーツも修行大師像も缶チューハイも、この間のちょっとした失敗も憎たらしい人間もいつかやってくる死も、全て大日如来の化身である。この考え方を象徴化した図像が胎蔵曼荼羅である。空海は全てを肯定してくれる。同行二人、今日も空海はどこかで人々を見守っている。

 本堂から奥に行くと、金剛院がある。

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太山寺金剛院

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光明真言百万遍

 金剛院の中には、光明真言百万遍塔があった。真言とは、法身仏(宇宙そのもの)大日如来の放つ言葉だとされている。どうやら大日如来に象徴される宇宙は、梵語サンスクリット語)を使うらしい。

 さて、山上から下りて、上郡町の落地(おろち)という地域に行く。ここには、古代の駅である、野磨駅家(やまうまや)跡がある。国指定史跡になっている。

 以前、布勢駅家の記事で説明したが、奈良時代に国が整備した官道には、16㎞ごとに駅家と呼ばれる宿泊施設があった。山陽道は、主要道路だったので、8㎞ごとに駅家があった。

 落地からは、野磨駅家跡が発掘された。全国で、駅家跡と認定された遺跡は、この野磨駅家跡と布勢駅家跡の2つしかない。西播磨に2つの駅家跡があるのは、出来すぎのような気がする。

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野磨駅家飯坂遺跡(後期駅家)

 野磨駅家は、前期と後期に分かれる。前期駅家跡は、八反坪遺跡と呼ばれ、後期駅家跡は、飯坂遺跡と呼ばれる。

 前期駅家は、掘立柱(地面に直接柱が立てられた)で造られた茅葺の駅家である。後期駅家は、礎石が据えられた白壁瓦葺の豪華な駅家である。

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後期野磨駅家

 後期駅家跡は、発掘が終わり、今は草むらになっている。当時そこに建っていた建物の名称を表示した看板が草の中に立つのみである。

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野磨駅家正殿跡

 この野磨駅家、驚くなかれ、清少納言枕草子」に出てくる。「枕草子」第225段である。

山(野磨)の駅は、あはれなりしことをききおきたりしに、またもあはれなることのありしかば、なほ取り集めて、あはれなり。 

  どうやら、野磨駅家には、「あはれ」なことが2回あったようで、それが都へも聞こえていたようだ。

 一つ目の「あはれ」は、「興味深いこと」を指す。当時読まれていた、「今昔物語集」第14巻に、その話が出てくる。

 金峯山の転乗法師という僧侶は、「法華経」を記憶しようと勉強し、6巻までは覚えられたが、7,8巻がどうしても覚えられない。転乗は、一生懸命修行したが、ある時夢を見た。夢に聖人が出てきて、転乗にこう言った。

「お前は、前世が野磨駅家に住んでいた毒蛇だった。ある時お前は、駅家に泊まった僧侶を食べようとしたが、僧侶が「法華経」を唱えだしたので、聞き入ってしまって、食べるのを止めた。僧侶が6巻まで唱え終わった時、夜が明けたので、僧侶は7,8巻を唱えずに駅家から出て行った。だからお前は7,8巻を覚えられないのだ。しかし、お前は、あの時に「法華経」を聞き入ったから、毒蛇から人間に生まれ変わることができたのだ」

 転乗は、その後も修行に明け暮れ、嘉祥二年(849年)に亡くなった。

 清少納言は、この話を一つ目の「あはれなりしこと」と書いたのだろう。次の「またもあはれなることのありしかば」とは何だろう。この「あはれ」は「気の毒なこと」を指す。

 当時の実力者、内大臣藤原伊周(ふじわらのこれちか)が、花山法皇に弓を放ったことで処分を受け、大宰府権師(ごんのそち)に左遷されることとなった。長徳の変と呼ばれる、長徳二年(996年)の政変である。伊周は、妹の中宮定子の邸に匿われているところを捕まり、大宰府に護送される。その途中、野磨駅家に宿泊したとされる。

 中宮定子は、清少納言が仕えた人である。清少納言も、邸内に匿われる伊周をみかけたことがあっただろう。

 野磨駅家のある場所は、落地(おろち)という地名だが、「今昔物語集」の説話があったから、こういう地名がついたのか、それとも本当に毒蛇がいたのか、興味は尽きない。

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前期野磨駅家跡

 前期野磨駅家のあった八反坪遺跡は、飯坂遺跡の少し南の田んぼの地下にある。今は説明板が立つのみである。昔は、この田んぼのあった場所に山陽道が通り、駅家があったのだ。

 日差しは強いが、田んぼの上を夕方の涼しい風が渡る。昔ここに毒蛇が住んで僧侶を襲おうとし、藤原伊周が悲嘆に暮れたことを想像すると、心が少し楽しくなる。