有年原・田中遺跡公園から北を見ると、蟻無山という小高い丘がある。この山の上に、蟻無山古墳がある。築造は5世紀前半。第16代仁徳天皇の時代か。
70メートルほどの高さの丘なので、登山と言うほどのこともない。頂上には、県史跡の蟻無山1号墳があるが、ここに古墳があると事前に知らなければ、気づかないほど自然と一体化している。
この古墳の形式は、造出し付き帆立貝形古墳と言われている。なぜそう言われるのかは、説明板を見た方が早い。
円丘部に小さな突出部が付いた形が、上から見るとホタテ貝の貝殻のような形だから、このような名前がついたらしい。
しかし、古墳全体が風化して自然と一体化しているので、どこが突出部なのかは写真では分かりにくい。
上の写真の手前が突出部で、奥が円丘部である。
ここが古墳だという痕跡は、周辺に散らばる川原石に見ることが出来る。
古墳と言うと、土で作った丘に木が生えているというイメージがあると思うが、当時の古墳は、一面に石が葺かれていた。「有年 前編」の記事にあった、1号墳をイメージしてもらったらいい。
蟻無山1号墳の周りには、丸みを帯びた川原石が転がっている。千種川の川原石をここまで運んで、古墳表面に葺いたのであろう。
この古墳が造られた当時は、古墳全体の表面に石が葺かれていたのだ。
さて、蟻無山を下りて、有年の遺跡から発掘された遺物を展示する有年考古館に向かう。しかし、残念ながら休館日であった。
ここは、地元の医師で考古学者だった松岡英夫が、自らが収集した遺物を展示するため、昭和25年に独力で設立した考古館である。平成23年以降は、赤穂市が管理している。
有年考古館は、「日本一小さな考古館」と言われている。
有年考古館から西に行き、橋を使って千種川を渡り、少し北に行くと、地蔵立像板碑がある。
このお地蔵様が草に埋もれているのを、松岡英夫が発見し、地元有志の協力で今のように祀られるようになった。兵庫県指定重要文化財である。延文三年(1358年)の銘がある。
ここから更に北に行くと、祇園塚と呼ばれる野田2号墳がある。墳丘の盛り土がほとんど失われているので、本来の規模や形は不明である。古墳時代後期築造の古墳である。
この古墳の特徴は、玄室に至る羨道の入り口に閉塞石があることである。入るべからずと威嚇されているようだ。
閉塞石を乗り越えて、羨道に入ると、玄室と羨道の間に間仕切り石がある。
更に「入るな」と警告されているみたいだ。さすがに玄室内には入らなかったが、写真は撮った。
玄室の奥は、巨大な石が積まれて壁が造られている。写真を撮った時には気づかなかったが、こうして見ると、玄室内に蜘蛛が沢山いたことが分かる。
野田2号墳は、山際の墓地の隣にある。私が訪れた時には、すぐ近くに野生の鹿がいた。鹿は私を見て山の中に逃げたが、しばらく山中から鹿の警戒するような声が聞こえて来た。
この古墳も既に鹿や猪が活動する自然界の一部になってしまったかのようだ。人間の活動の痕跡が、時間の経過とともに風化して、最後は自然に紛れてしまう。それはそれで乙なような気がする。