龍王滝に向かう途中に、仏足石が祀られている。
仏足石は、釈迦の足型を石面に刻んだものである。
初期仏教では、釈迦の像を作ることは恐れ多いこととされていた。仏教徒は、仏足石や菩提樹、仏塔、法輪などを拝んでいた。
この仏足石の中央にも、法輪が刻まれている。
ここから先に進むと、別名聖光殿と呼ばれる鉄斎美術館がある。
鉄斎美術館は、江戸時代後期から大正時代までを生きた南画家・富岡鉄斎の作品を収蔵展示する美術館である。
清澄寺第37代法主光浄和上は、大正11年に87歳の鉄斎に出会った。鉄斎の作品に流れる深い宗教心と芸術的香気に打たれた光浄和上は、鉄斎の作品の研究と収集に生涯を捧げた。
この遺業を継承した第38代法主光聰和上は、昭和45年に鉄斎作品を収蔵する蓬莱庫を建て、一般公開のために昭和50年に鉄斎美術館を建てた。
コロナ禍以降、鉄斎美術館は閉館している。
更に進むと、滝の水音が聞こえてくる。龍王滝である。
荒神川に掛かる小さな滝である。
左側の岩壁をくり抜いた所に不動明王が祀られているというが、角度的によく見えなかった。
滝の手前には、十三重塔があって、燈明や線香が上げられている。
思い返してみれば、寺院があるところの近くには、川が流れていることが多い。昔の日本では、川や池には龍神が棲むと言われていた。
ここにも、龍神の気配を感じる。
さて、清荒神清澄寺がこの地に再建されたのは、江戸時代後期である。
元々の清荒神は、宝塚市売布きよしガ丘の、現在売布きよしガ丘中央公園がある場所にあった。
昭和45年の発掘調査により、この場所が清荒神清澄寺の旧寺地であると判明した。それ以来、旧清遺跡と呼ばれるようになった。
旧清荒神清澄寺は、金堂の前面の東側に法華堂、西側に常行堂を配する天台系の伽藍配置となっていた。
この伽藍配置は、川西市の法華三昧寺、加古川市の鶴林寺の伽藍の系統を引くものである。
旧清遺跡は、平安時代後期に建てられ、その後源平合戦の兵火で焼けて、鎌倉時代になって再建された伽藍の跡である。
公園には、当時の金堂のあった位置に土壇が復元されている。
旧清荒神清澄寺は、戦国時代の兵火で焼けてしまった。江戸時代初期には、旧清荒神清澄寺は廃され、江戸時代後期に現在地に移った。
旧金堂跡周辺からは、瓦片や塑像の指先片、白磁片等が出土し、宝塚市指定文化財となっている。
清荒神清澄寺の参拝客の多さを見ると、この寺院が、大阪から阪神間、神戸までの広範囲の人々の信仰を集めていることを実感する。
都会に住む人々も、このように古くから続く精神的支柱を身近に求めているのである。