会下山遺跡から下りて、芦屋市山芦屋町にある滴翠(てきすい)美術館を訪れた。
ここは、戦前に大阪財界で活躍した山口吉郎兵衛が収集した茶道具の銘品を収蔵展示する美術館である。
私は今まで2回ほど、お茶を習い、自宅で陶芸をしている妻と共にここを訪れたことがある。
その時は、茶陶の茶碗や水指、茶杓といった茶道具の銘品を見学した。
今回私が訪れた時は、閉館中であった。
私は茶を習っているわけではないが、それでも枯れた自然の味わいを、道具として具現化した茶道具の世界は、見ていて飽きが来ない。
茶陶の茶碗は、人間が作り出したものの中で、最も高い精神性を具現化したものではないかと思う。
滴翠美術館の建物は、昭和時代に建てられたものである。館内に入ると、古い建物の独特の匂いがする。
滴翠美術館では、陶芸教室も行われている。私が訪れた時は、教室を終えた生徒たちが外で談笑していた。
さて、ここから南下し、阪急芦屋川駅の北側の通りを少し西に行った、芦屋市西山町にある芦屋廃寺跡に赴いた。
廃寺跡と言っても、石碑が建っているだけである。
芦屋廃寺跡は、7世紀後半の白鳳時代に建立された寺院の跡である。
白鳳時代に建てられた寺院は、大抵平安時代には廃絶している。ところが芦屋廃寺の遺跡からは、白鳳時代、平安時代、室町~江戸時代の三層から遺物が発掘され、1000年以上続いた寺院であることが分かった。
元禄五年(1692年)の「寺社御改委細帳」には、昔ここに行基が開山した塩通山法恩寺があり、在原業平が修復したが、嘉吉二年(1442年)の兵火で焼失し、その跡に薬師堂が建てられたと記載しているらしい。
法恩寺が、芦屋廃寺の後身だろう。
江戸時代後期に出版された「摂津名所図会」には、まだ薬師堂が載っているが、今では薬師堂はなくなっている。
昭和11年には、ここから礎石の一部が発掘された。
昭和42~43年の発掘調査では、法隆寺系統の鋸歯文縁八葉複弁蓮華文軒丸瓦、唐草文軒平瓦などが採取された。
芦屋市立美術博物館の敷地に、芦屋廃寺の塔心礎が置かれている。兵庫県指定文化財になっている。
この塔心礎は、昭和11年に発見され、長い間芦屋市月若町の猿丸家邸内で保管されていたという。
江戸時代初期には、大坂城石垣の用材として採石されようとした。塔心礎上面に、薩摩国島津家の丸十字の刻印が彫られている。
どういう因果か分らぬが、石垣としては使われず、放置されたようだ。
平成5年に芦屋市に寄贈され、ここに移された。
芦屋市立美術博物館には、昭和時代に発掘された瓦などが展示されている。
白鳳時代の寺院は、大陸から渡ってきた技術者たちが建てたことだろう。この時代の瓦を見るのが何となく好きだ。この時代の大陸の息吹を感じるからかもしれない。
芦屋廃寺跡は、瓦や礎石は見つかるが、遺構がなかなか見つからなかったので、長らく「幻の廃寺」と言われていた。
だが平成11年の発掘調査で、7世紀後半に建てられた金堂の礎石と遺構が見つかった。金堂の東側に塔の遺構があり、東に塔、西に金堂という、奈良の法起寺式の伽藍配置だったことが分かった。
平成13年には、「寺」と刻印された奈良時代中期の須恵器が見つかった。
寺一文字だけが刻印された須恵器の例は、全国的にこれしかないのだという。
白鳳時代は、寺院建立の大ブームが起こった。日本は大化の改新を境として、一挙に古墳の国から寺院の国になった。
仏教が、日本国家の拠って立つ基になった。
その後、奈良時代に入って「古事記」「日本書紀」が出来たのは、外来の仏教の影響を受けた朝廷が、今一度自分たちのルーツを明らかにするために編集したものだろう。
7世紀から8世紀にかけての、寺院、国史の成り立ちは、当時の人たちが、自分たちの国がどういう国であるかを模索している過程を現しているように思える。