大坂城石垣石切小瀬原丁場跡 

 12月2日に小豆島の史跡巡りを行った。

 小豆島は、香川県に所属する。旧国名で言えば、讃岐国の一部である。

 当ブログの史跡巡りも、ついに四国の一角に辿り着いた。

山川出版社香川県の歴史散歩」

 香川県は、兵庫県岡山県鳥取県京都府に次いで、私が史跡巡りで訪れた5つ目の府県である。

 また、讃岐は、播磨、備前、美作、摂津、但馬、因幡丹波、淡路、備中に次いで、私が史跡巡りで訪れた10番目の国になる。

 小豆島へは、姫路港から福田港、新岡山港から土庄(とのしょう)港、高松港から土庄港という3つの航路を利用して渡る。

 私は、岡山市中区新築港にある新岡山港からフェリーに乗った。

新岡山港フェリー乗り場の建物

 フェリーには自動車を積み込むことが出来るが、私は今回は身一つでフェリーに乗った。小豆島ではレンタサイクルを利用しようと思ったのである。

 スイフトスポーツは、フェリー乗り場の有料駐車場に置いて行った。

小豆島フェリー

 私は、午前8時40分新岡山港発、午前9時50分土庄港着のフェリーに乗った。

 しばらく子供のように船内を見て回った。甲板上を冷たい海風が吹いている。暖かい季節ならば、甲板上で過ごすのも気持ちが良いことだろう。

舵のある休憩スペース

甲板上のブランコ状の椅子

客室内の様子

 出港してしばらく航行すると、左手に犬島が見えてくる。

犬島

 かつて採石場や銅の精錬所があった島である。

 正面には遠くに小豆島が見える。

小豆島

 フェリーの客室内には、フェリーが航路のどの辺りを進んでいるかを示すモニターがあった。

フェリーの位置を示すモニター

 さて、1時間近く経つと、フェリーの正面に土庄の街並みが見えてきた。

 土庄は、小豆島西部の中心となる町である。

土庄の街並み

 土庄港に近づくと、急にごま油の匂いがしてきた。

 土庄港近くにある、かどや製油小豆島工場から漂う匂いである。

 実はごま油は、小豆島が日本一の生産量を誇っている。私にとって、小豆島の匂いと言えば、ごま油の匂いであると思うようになるほど印象深かった。

 さて、フェリーが土庄港に着いた。私は港近くにあるオーキドホテルでレンタサイクルを借りた。終日1,100円である。

オーキドホテル

レンタサイクル

 レンタサイクルは、御覧のとおりのママチャリである。三段変速が付いているが、実際に乗ってみると、小豆島のアップダウンを走るには役不足だと分かった。次回は電動自転車を借りようと思う。

 さて、この自転車で土庄港からスタートして、県道254号線を西に向かって走った。

 しばらく進むと、県道254号線と小瀬(こせ)集落に入る道が分岐する地点に至る。左の小瀬集落に入る道を進むと、すぐ左手に中川二助翁之碑がある。

中川二助翁之碑

 中川二助は、小瀬出身で、麦稈(ばっかん)真田(麦わらを平たく潰して真田紐のように編んだもの)を製作した人物である。

 地元の有志がその功績を称え、明治4年に建てた碑である。

中川二助翁之碑

 よく見ると、石碑の端がでこぼこしている。石切場から切り出された石のようだ。

 小瀬集落から集落裏の山を登ると、中腹に江戸時代初期に大坂城の石垣の石切場跡である大坂城石垣石切小瀬原丁場跡がある。

 この中川二助翁の碑も、石切場から切り出した石を利用したのだろう。

小瀬集落の裏山

 小豆島に来て気づいたが、山頂から花崗岩の岩肌が露出している山が多い。というより、小豆島全体が花崗岩で出来ているようだ。小豆島の土は、花崗岩が風化して出来た真砂土である。

 大坂の陣が終わった後、徳川秀忠、家光の命で大坂城の大改築が行われた。

 その時に建造された石垣の石材は、大半が小豆島から切り出された。

 巨大な石を切り出しやすく、かつ切り出してすぐ船に乗せて運ぶことが出来る小豆島は、大坂城の石垣の供給地として恰好の場所だったようだ。

 裏山の中腹に、そんな石切場の一つの小瀬原丁場跡があるとのことだったので、自転車を押しながら山道を上って行った。

 山道の途中に、大蔵神という神様が祀られていた。

大蔵神

 石碑を見てみると、壇ノ浦の合戦で敗れた平家の落ち武者が、この村まで逃れてきて、山中で息絶えたのを、村人が供養し、神霊として祭祀したのがこの大蔵神であることが分かった。

 落ち武者が播州明石郡の大蔵村出身だったことから、大蔵神と呼ぶようになったそうだ。

 播州出身の私としては、この大蔵神に妙な親しみを覚えた。

 さて、さらに自転車を押して坂を上ると、香川県指定史跡大坂城石垣石切小瀬原丁場跡の碑があり、その辺りに巨石が沢山あった。

大坂城石垣石切小瀬原丁場跡の碑

 当時小豆島は幕府領であった。幕府は、伊勢と九州の諸大名に、小豆島からの石材の切り出しと大坂城石垣の建築を命じた。

 小瀬原丁場は、肥後熊本藩の加藤肥後守忠広が担当し、熊本藩士が土庄村庄屋笠井家に宿泊して工事を進めた。

 石碑の横の巨石には、加藤家が切り出した石の印である蛇の目紋が刻まれている。

蛇の目紋と思われる円形の文様

 また、石碑から上に続く階段があり、左右に石切場跡の巨石が散在している。

石切場の巨石

 階段を登りきると、車を駐車するスペースがある。

 この先にある小瀬石鎚神社の参拝者用の駐車場である。

 その駐車場の隅に、矢穴を穿たれて割られた石材と説明板がある。

石材と説明板

説明板

石材

石材。左下隅の石に蛇の目紋が見える

 大坂城に行ったことがある人はご存じかと思うが、あの城の石垣の巨大さ、壮麗さは圧巻である。

 城の建物は、当時のものはほとんど残っていないが、石垣は江戸時代初期のものが残っている。その石材の多くは、小豆島から切り出されたものである。

 大坂城石垣は、徳川幕府が残したものの中で、有数のモニュメントだろう。