三田市天神にある真言宗の寺院、如意山金心寺(こんしんじ)に赴いた。
金心寺は、新興住宅街の中の丘の上にある。
寺伝によると、金心寺は、天智天皇七年(668年)に、唐から帰朝した中臣鎌足の長子、定慧上人により開創された。
創建当時の寺域は、今の兵庫県立有馬高等学校から三田市立三田小学校の敷地だけでなく、屋敷町にまで及んだという。
天正七年(1579年)に、秀吉勢が信長に謀反を起こした荒木村重を攻撃した際、寺は焼き討ちに遭い、伽藍は焼亡する。
この時、本尊の弥勒仏坐像は、三田小学校横の三田御池に投げ込まれて難を逃れたという。
その後、寺は屋敷町に再建されたが、明治2年に現在地に移転した。
山門は、その際三田藩御下屋敷にあった門を移築したものである。
山門を潜って境内に入ると、あちこちに紅葉した楓を見ることが出来る。
今年は、いつまでも暑いと思っていると、急に寒くなって、秋がなかったような印象だったが、三田は比較的寒冷な地のためか、紅葉が進んでいた。
金心寺には、木造弥勒仏坐像と木造不動明王立像、そして絹本著色十一面観音画像という3つの国指定重要文化財がある。
昭和7年に、本尊の弥勒仏坐像を修理した際、仏像胎内から、「当地を松山の庄と云う。之を金心寺三福田により三田と改む」と書かれた文字が見つかった。
三福田は、釈迦がお布施すべき人を田に例えて言った、悲田(悲しみ困っている人)、恩田(恩義のある人)、敬田(敬うべき人)のことを指す。
この発見により、三田の地名の由来が、金心寺にあることが分かった。
拝観は出来なかったが、弥勒仏坐像は本堂に、不動明王立像は護摩堂に祀られているのだろう。
私が境内を散策している間、住職の住居と思われる建物から誦経の声が聞こえていた。
しばらくして、住居から住職が出てこられて、境内の奥に歩いて行かれた。非常に真剣な厳しいお顔をしておられた。
私は住職の威厳に満ちた姿に心を搏たれたが、その後ろ姿を追うと、境内奥の社の中に入っていかれた。
そのお社は、白龍大権現を祀るお社だった。
そして、しばらくすると、白龍大権現のお社から誦経の声が聞こえてきた。
この寺院で最も大切なお勤めが為されていると感じた。
白龍大権現の手前には、ガラス張りの建物があり、その中にベンチが並び、木造の鳥居があった。
参拝者が参列する建物だろう。
この建物内の説明書きを読んでみると、白龍大権現のお社には、白龍大権現と弁財尊天と宇賀大明神の三柱の神様が祀られているらしい。
白龍大権現は、金心寺本堂建立の砌、地中から五色の妙相にて示現したという。龍神界の首座におられる神様であるそうだ。
弁財尊天は、七福神の中の琵琶を持った弁財天ではなく、宇賀神将菩薩という八臂の天女の姿の弁天様であるという。
宇賀大明神は、宇賀神将菩薩の頂きの宝冠の中におられる神様で、白蛇形で顔は白髪の老人であるという。
この三神の本地は一つだが、三身に顕現しておられるとのことだ。
白龍大権現、弁財尊天、宇賀大明神の神像を拝観することは出来ないが、白龍に乗り、宇賀大明神が居る宝冠を被った、八臂の弁財天の姿が目に浮かんだ。
白龍大権現からは、誦経の声が聞こえる。
神仏は、人間が脳の中で仮構した存在だという考え方もあるが、住職の厳しいお勤めの様子を窺うと、神仏の世界が真の世界で、我々の住む世界が実は仮構の世界だという気もしてくる。