保久良神社の参拝を終えて、神戸市東灘区の史跡巡りが終わった。あとは有馬地域の史跡巡りが残っているが、それを終えれば当ブログの神戸市内の史跡巡りは終結し、次は阪神間地域の史跡巡りに移行する。
有馬の史跡巡りは、次々回の摂津の史跡巡りの機会に回すとして、一先ず東灘区に隣接する芦屋市内に入った。
芦屋市三条町にある会下山(えげのやま)遺跡を訪れた。
会下山遺跡への入口は、芦屋市立山手中学校の西側、芦屋市聖苑の手前にある。
フェンスに設けられた扉を開けると、遺跡への登山道が始まる。
会下山遺跡は、標高約200メートルの会下山山頂尾根部に位置する弥生時代の高地性集落の遺跡である。
約2000年前に人が住んだ跡だ。
弥生時代は、稲作を中心とした生活が営まれていて、基本的に人々は水田のある低地に集落を構えた。
そんな時代に、このような稲作に適さない山上に集落が出来たのは謎とされている。
弥生時代には、ムラが出来上がり、ムラが集まってクニが出来た。そしてクニ同士で争いが起こった。
高地性集落は、そのような戦争に備えたものだとも、洪水のような自然災害に備えたものだとも言われている。
それ以外にも、鉄器製造のためや、木器の材料を得るために出来たなどの説がある。
昭和31年に、山手中学校の生徒が会下山登り口で弥生土器の破片を見つけたのがきっかけで発掘が始まり、昭和35年に国指定史跡になった。
会下山遺跡からは、9棟の竪穴住居の跡が見つかった。
これらの住居跡からは、土器片が発掘されている。会下山遺跡から発掘された遺物は、芦屋市立美術博物館に収蔵されている。
会下山遺跡の高所には、祭祀場跡がある。
村の最高所であるS地区祭祀場跡からは、東西6.4メートル、南北6メートルの規模を持つ竪穴遺構が見つかった。
ここからは、土器や石器、二枚貝(サルボウ貝)などが発掘された。
竪穴遺構の中心からは、大量の木炭が見つかった。共飲共食するような祀りの場があったことが想像される。
このS地区祭祀場跡からは、大阪方面への眺望が開けている。遺跡の中で最も眺めの良い場所だ。
はるか彼方に大阪梅田のビル群がうっすらと見える。2000年前の高地性集落と、現代の高層ビルを対比しているかのようだ。
S地区祭祀場跡から更に北に歩くと、遺跡北限の堀の跡に至った。
遺跡の北限には、幅3~5メートル、深さ1メートルの堀が二条通っていたという。
敵や動物の侵入を防ぐために作られたものと見られている。
村の中央には、ゴミ捨て場の跡のU地区廃棄場跡がある。
人工的な凹みから、黒色有機質土や雑多な遺物の堆積が認められた。人間が生活すると、ゴミが出る。これは昔から遠い将来まで変わらないことだろう。
またN地区焼土坑跡からは、火焚き場の跡が3か所見つかった。
ムラ共同の調理場や狼煙を上げる場所だったと思われる。
J地区からは、高床倉庫跡が見つかった。
現在、J地区高床倉庫跡には、弥生時代の高床倉庫が再現されている。
高床倉庫は、穀物などの貯蔵庫で、湿気やネズミの害を避けるため、床を高くしている。
柱、階段と床の間には、ネズミ返しという板が備え付けられている。
集落の最低所からは、墓地の跡が見つかった。
墓跡からは、乳幼児を埋葬したと見られる楕円形の土坑が4基見つかっている。
その内の1基からは土器が見つかり、土器内に骨片があった。土器の下からはガラス小玉が見つかった。
亡くなった幼児が生前気に入っていたものだろうか。弥生時代には、ガラス小玉は大変価値の高いものだったろう。
それを幼児の墓の下に埋めたというのは、悲しみの大きさを伝えている。
また、山手中学校の敷地内からは、芦屋市指定文化財となった漢式三翼鏃が発掘された。
三方に翼を持つ有茎式の銅鏃で、舶載品つまり海外で作られたものだという。
前回紹介した保久良神社の祭祀場跡もそうだが、当時は山のすぐ麓まで海が迫っていたことであろう。
会下山遺跡のような高地性集落も、海を通じて海外との交易をしていたことだろう。
会下山遺跡は、住居跡、祭祀場跡、高床倉庫跡、廃棄場跡、土坑跡、墓跡と、集落の生活の全体を構成するものが見つかった貴重な高地性集落遺跡である。
弥生時代は、日本中に小さなクニが出来てお互いに交易し、争っていたことだろう。
そんな中から、全国を統一した大和王権が誕生した。大和王権の支配者である大王(おおきみ)の子孫の天皇は、未だに我が国の象徴として君臨している。
弥生時代の遺跡は、今に続く我が国の政権誕生前の、原初の日本の姿を伝えてくれる。