雲部車塚古墳

 蔵六寺の参拝を終え、兵庫県丹波篠山市東本荘にある雲部車塚古墳に赴いた。

雲部車塚古墳

 この古墳は、神戸市垂水区にある五色塚古墳に次いで、兵庫県下で二番目に大きい前方後円墳である。

 全長約143メートル、後円部の直系約83メートル、高さ約12メートル、前方部の幅約83メートルの大きさを誇る。

 周囲は盾形の広い濠に囲まれている。

 この古墳は、発掘された遺物から、5世紀前半に築造されたものと推定されている。

 伝説では、この古墳には、第9代開花天皇の子・彦坐王(ひこいますおおきみ)の子・丹波道主(たにわみちぬし)命が埋葬されたとされている。

 記紀によれば、第10代崇神天皇は、全国制覇のため、東海、北陸、山陽、山陰にそれぞれ征討将軍を派遣した。これを四道将軍という。

 崇神天皇は、山陰の征討に、甥の丹波道主命を派遣した。

 崇神天皇は、実在したとされる初めての天皇だが、四道将軍の派遣は伝説の領域の話なので、戦後の歴史教育で教えられることはない。

宮内庁の立て看板

 雲部車塚古墳に皇族が埋葬されているという伝承があるため、この古墳は陵墓参考地として宮内庁が管理している。当然ながら立ち入りは禁止されている。

 古墳に渡る道の手前には柵があって、人の侵入を防いでいる。後円部をよく見ると、人一人が登っていける細い道が墳頂まで続いている。

墳頂まで登る道

 もしこの古墳が丹波道主命の墓だとしたら、丹波道主命は山陰征討のほんの序の口であるこの地で没したことになる。まだ山陰では出雲系の勢力が強く、丹波から先に進めなかったのかも知れない。

 とは言え、崇神天皇は、実在していたとしても、3世紀半ばから4世紀前半に在位した天皇だから、この古墳の築造年代とは合わない。

 雲部車塚古墳の埋葬者は、実際のところは丹波道主命ではなく、この地でかなりの勢力を持った人物だろう。ひょっとしたら、土着した丹波道主命の子孫かも知れない。

手前が後円部、奥が前方部

 宮内省の陵墓参考地になる前の明治29年(1896年)に、雲部車塚古墳の試掘が行われた。

 後円部中央に竪穴式石室があり、その中から四方に縄掛け突起のついた長持形石棺が出土した。

 令和2年2月13、14日に紹介した兵庫県立考古博物館には、発掘された雲部車塚古墳の石室と長持形石棺のレプリカが展示されていた。

石室と長持形石棺のレプリカ

 御覧のように、埋葬当時は石室の壁は朱色に塗られ、壁に多数の鉄刀や鉾が掛けられている。石棺にも刀が掛けられている。また石室の隅には甲冑が置かれていた。

 ここに埋葬された人物は、間違いなく地位の高い武人である。

発掘された石室内のイラスト

 石室の壁に刀が掛けられていたのは、全国の古墳でもここだけだという。被埋葬者は、よほど武器が好きな人物だったのだろう。

 博物館には、復元された鉄刀や甲冑も展示されていた。

鉄刀のレプリカ

兜のレプリカ

 雲部車塚古墳に埋葬されていた武器は、剣8本、刀34本、鉾3本、矢107本、甲冑5着、馬具1組である。

 これらの武器、武具類は、当時大変高価だった筈だ。それが惜しみもなく埋葬されているのを見ると、被埋葬者が動かした軍勢の大きさが想像できる。

 丹波道主命は伝説上の人物だが、この古墳には、彼の伝説に近い、大和王権から山陰平定を命じられた将軍が埋葬されているのかも知れない。

 ちなみに明治29年の試掘では、棺の中は開けられなかった。棺の中にどんな人物が埋葬されているのかは、今も謎のままである。宮内庁の陵墓参考地なので、今後も棺が開けられることはないだろう。

復元された被埋葬者の生前の雄姿

 兵庫県立考古博物館では、埋葬品から推定した馬上の王の姿を再現している。日本に馬が伝来したのは5世紀のことである。

 それまでの戦争では、馬は使われなかった。中央集権的な国家を作ろうとしたら、反乱が起こったときに素早く展開できる武力が必要である。また、中央の命令が早く領土内に行き渡る必要がある。

 馬が入るまでの日本には、そのような機動力のある武力や命令の伝達能力がなかっただろうから、そのころの日本は、ゆるやかな豪族の連合体のような国家だったと思われる。

 雲部車塚古墳には、倍塚(ばいちょう)が7基あったというが、今は3基しかない。  

 私が現地で確認したのは2基である。

倍塚

 7基の倍塚に葬られた人物は、この古墳に埋葬された人物の腹心の部下だったのだろうか。想像すると興味が尽きない。

前方部から見た古墳

 古墳の濠の周囲をぐるりと一周した。畦道に生えた草は降雨のために濡れていて、靴がびしょびしょに濡れてしまった。

 雲部車塚古墳から北東に約300メートル進むと、なだらかな斜面上に一辺約30メートルの方墳がある。兵庫県指定文化財・北条古墳である。

北条古墳

 北条古墳は、古墳時代中期の5世紀前半から中期にかけて築造された古墳である。

 戦後になって行われた採土工事中に発見された古墳である。

 壺形埴輪、家形埴輪、刀剣類が発掘された。主体部も発掘されたが、今は埋め戻されている。

 雲部車塚古墳とほぼ同時期に築かれた古墳である。この二つの古墳の被埋葬者同士には、何らかの関係があったことだろう。

 今日は、5世紀前半から中期にかけての2つの古墳を紹介した。この時代は、日本に馬が伝来し、鉄器が普及し、大和王権の武力が急速に拡大した時代だった。

 この少し前の4世紀末には、日本の軍隊は朝鮮半島に進出している。4世紀末から5世紀にかけては、日本の国力が歴史上最初のピークに達した時代だろう。

 雲部車塚古墳の大きさと埋葬された武具類の豊富さは、古代大和王権の持つ強大な力を感じさせてくれる。