三柱神社の脇から観音山への登山道が始まる。
暑い中、気を引き締めて登り始めた。
登山道の道端には、ミニ西国三十三所観音霊場の観音菩薩像と、ミニ四国八十八ヶ所霊場の石仏が祀られている。
砂岩製の石仏は、微細に彫刻されている。
石仏の姿を楽しみながら登っていく。それにしても暑い。
観音山は標高245メートルという低山である。しかし暑さのせいか、体力を消耗した。
観音山には、戦国時代末期に山名氏の家臣垣屋隠岐守が清富城を築いた。
途中、山城の遺構と思われる土橋などがあった。土の城の遺構だ。
更に歩くと、仁王門が見えてきた。
中に赤色の仁王像があるが、漫画的な姿の仁王像であった。
仁王門は、山頂近くにある。あと一息だ。
仁王門を過ぎてしばらく行くと、右手に階段がある。そこを登ると、平坦な削平地がある。
かつての山城の本丸跡の曲輪であろうか。
ここには、平安時代初期に観音山を開山し、十一面観音立像を安置した作善上人の墓がある。
作善上人の墓に詣で、仁王門からの道に戻り、更に進むと鐘楼が見えてくる。
ここで鐘を一つ撞いてみた。朗々とした音が響いた。
鐘楼を過ぎて更に進むと、阿弥陀堂が見えてくる。
ここには、新しそうな阿弥陀仏坐像が祀られている。
手を合わせて念仏を唱えた。
阿弥陀堂を過ぎてさらに進むと、行く手に大きな観音堂が見えてくる。
観音堂の彫刻は、五代目中井権次橘正貞の作である。中井権次一統の作品としては、最西端にある作品だ。
向拝の鳳凰の彫刻の裏に、正貞の名が刻まれている。
そしてこの観音堂には、観音山の名の由来となった国指定重要文化財の木造十一面観音立像が祀られている。
観音堂内陣には、元々木造十一面観音立像を祀っていた宮殿がある。
今は像の安全な保管のため、本尊は観音堂背後の収蔵庫に収められている。
十一面観音立像は、毎年4月18日の春季大祭の時にのみ一般公開されている。
この像は、斉衝三年(856年)に作善上人が浜坂を訪れた時に、矢城の観音島付近で観音像を勧請して、この地に安置したものと伝えられている。
観音像は、カヤの一木造りで、高さは約1.8メートルあり、顔やひだの造りから平安時代初期の作と推定されている。
お香の煙で黒く光る姿は、まさに霊像というべきである。
観音堂の近くには、堀切がある。
尾根伝いの本丸への侵入を防ぐための堀切である。矢張りここは城跡であった。
この城が戦火に巻き込まれ、本尊の十一面観音立像が焼けなかったのは幸いであった。
古くから焼けずに残った木像には、それだけで時代を超えた霊力があるように感じる。
この御像の傍に近づけたことのありがたさを思った。