直見 やくの玄武岩公園

 夜久野高原の北側は、上夜久野という地域である。

 上夜久野には、南北に渡る二つの谷がある。東側の谷の地域を直見(のうみ)という。

 直見地区には、仏教に関する文化財が4点存在する。

 一つ目は、福知山市夜久野町直見副谷にある臨済宗妙心寺派の寺院、清太院に収蔵されている木造釈迦如来坐像である。

清太院

清太院山門

本堂

 この寺院に収蔵されている木造釈迦如来坐像は、室町時代に制作された木造彩色像である。

木造釈迦如来坐像(福知山市のホームページより)

 肉身を金泥、着衣を朱彩とし、頭髪に群青を塗るが、これらはすべて後補であるそうだ。福知山市指定文化財である。

 次に赴いたのは、直見山中の集落である。

直見山中の集落

 この集落の中に、観音堂があり、そこに福知山市指定文化財の木造千手観音菩薩立像が祀られているという。

 集落の中を歩いて回ったが、ついに観音堂らしき建物を見つけることは出来なかった。残念である。もし観音堂の所在地をご存知の方がいたら、教えて頂きたいものである。

木造千手観音菩薩立像(福知山市ホームページより)

 福知山市のホームページに掲載された木造千手観音菩薩立像を見ると、なかなか均整の取れた優美な像である。このような像が、集落のお堂の中に安置されているというのが信じ難い。

 直見山中から北上し、直見宮垣にある木造釈迦如来坐像を祀る薬師堂を訪れた。

薬師堂

 この薬師堂に祀られる木造釈迦如来坐像は、現在は薬師如来坐像の姿をしているが、元々は釈迦如来坐像として制作されたものらしい。

木造釈迦如来坐像

 像の胎内にある墨書から、天仁二年(1109年)の製作であると判明している。典型的な定朝様の丸みを帯びた造像である。

 墨書により、応永二十八年(1421年)と天文十二年(1543年)に修理されたことが分かっている。薬師如来坐像への改変は、この時にされたものだろう。

 頭部や膝の造形に、この地域の特徴があり、福知山市を代表する仏像として、国指定重要文化財になっている。

 ここから更に北上し、直見栗尾の公民館に赴いた。

栗尾公民館

 この公民館には、福知山指定文化財の絹本著色方便法身尊像が保管されているという。

絹本着色方便法身尊像(福知山市ホームページより)

 蓮台上に来迎印を結んで直立する阿弥陀如来像を描いている。

 方便法身とは、浄土真宗で説く、一如を体とする法性法身から姿を現わした阿弥陀仏をさす。裏面の裏打ち紙に、大谷本願寺より享禄四年(1531年)に下された旨の墨書銘があるという。

 さて、直見の仏教文化財の所在地を巡り終えると南下して、夜久野町小倉にある、やくの玄武岩公園に赴いた。

やくの玄武岩公園

 この公園に見られる玄武岩の景観は、太古に噴火した田倉山の溶岩が冷えて縮んだ時に出来た六角形の割れ目が露出したものである。

やくの玄武岩公園

 但馬の玄武洞よりは小規模だが、かつて但馬から北丹波にかけての地域が、よく火山噴火を起こしていた証となる景観である。

 やくの玄武岩公園の南側にある塔の山という岡の上に、石造宝篋印塔がある。

石造宝篋印塔

 この宝篋印塔は、無銘であるが、各部の装飾や制作技法から、16世紀前半の制作と見られている。

石造宝篋印塔

 相輪の上部にある宝珠が失われているが、それ以外はほぼ完存している。

 塔身の四方には、月輪の中に金剛界四仏の種子が刻まれている。種子とは、梵字のことである。

金剛界四仏の種子

 この宝篋印塔は、地元の言い伝えでは、八木城主で丹波守護代だった内藤孫四郎の首塚とされている。

 内藤孫四郎は、応仁の乱で東軍細川氏に与し、西軍の但馬竹田城主太田垣氏に敗れて戦死したという。孫四郎の首を埋めた上に建てたのが、この塔であるという。

 制作時期と伝承には、年代の開きがあるが、内藤孫四郎の三十三回忌に造立されたものなら、年代にさほど開きはなくなる。

内藤孫四郎の首塚

 この塔は玄武岩製である。田倉山の太古の噴火で流出した溶岩から、この塔は作られた。

 全てのものが関連しあっていて、独立した存在はこの世界にないという仏教の縁起の思想を、こんな塔からも感じる。

 地球上の文明の痕跡は、ことごとく地球の活動の結果生じた素材を利用して築かれた。人間の文明も、何かから独立して存在しているわけではない。