観音山古墳 大野の整合

 8月21日に美作の史跡巡りを行った。

 先ず訪れたのは、岡山県苫田郡鏡野町下原にある観音山古墳である。鏡野町では最古の前方後円墳だ。

観音山古墳への登り口

 下原の集落の中にある観音山古墳の登り口から緩やかな坂を登り始める。

 この道を真っ直ぐ行くと、途中墓地に突き当たる。墓地に突き当たると左に行く。

墓地から古墳に行く道

 竹林の中を進むと、観音山古墳の標柱と階段が見えてくる。

観音山古墳の標柱

 階段を登ると、観音山古墳に至る。

観音山古墳

 手前にお堂がある。観音山古墳という名からすれば、観音菩薩を祀っているのだろうか。

 案内板によると、観音山古墳は、正式には郷観音山古墳と呼ぶそうだ。

 観音山古墳は全長約43メートルの小規模の前方後円墳である。

 奈良の箸墓古墳と同じく、前方部が撥形に開く古い形式を持っていて、4世紀に築造されたものと見られている。

後円部

 この古墳は、明治42年に発掘された。埋葬施設は竪穴式石槨で、中国製の三角縁四神四獣鏡、平縁半円方形帯神獣鏡、仿製(日本製)の三角縁四獣鏡の三面の鏡と鉄剣、鉄鏃が発掘された。

埋葬施設の跡か

 後円部の上に登ると、突き当りに掘り返された穴のようなものがある。ここが埋葬施設のあった場所なのだろうか。

 4世紀にこの地域を支配した首長の墓とされている。

 前方部は森林と藪に覆われていて、とてもではないが足を踏み入れることが出来なかった。

前方部方向

 箸墓古墳の撥形の前方部というものは、日本全国に広がっていった。この形は、3世紀から4世紀の日本文化を現す形だ。

 さて、観音山古墳から北上し、鏡野町竹田の、香々美川沿いの山の斜面にある大野の整合に赴いた。

大野の整合

 大野の整合とは、太古の海底の地層が地上に露出したものである。

 約1500万年前にこの辺りが海底であったころ、川からの土砂の流入が繰り返された。

 粒の大きい砂が早く沈み、粒の小さい砂がその上に重なった。下の層は砂岩になり、上の層は頁(けつ)岩になった。

 長い長い時の中で、次の土砂がその上に流れ込んでは固まり、砂岩と頁岩の層になることを繰り返した。

大野の整合

 こうして、約20層の級化成層(互層)が形成された。

 大野の整合は、この地層が隆起して地上に姿を現し、長さ約180メートル、高さ約32メートルに渡って露出したものである。

 今では、180メートルの大半が木に覆われているが、現在露出している部分だけでも大地の脈動の雄大さを感じることが出来る。自然の動きの壮大さに比べれば、人間の築いた史跡など、小さなものである。

 自立して動くものを「生きている」と表現するのであれば、地球はまさに生きていると言える。地球は一種の巨大生命体であると言える。

 風を受けて、波を眺めるだけで、この巨大生命体の驚異を感じることが出来る。世の中が退屈で、面白くないと思う人は、一度自分の身の回りにある太古からの地球の脈動の痕跡を探ってみるべきだろう。

 自分の小ささを知れば、自分の悩みの小ささを知ることが出来る。