小豆島尾崎放哉記念館

 鹿島明神社から東に走り、土庄の町に戻って来た。

 土庄町本町甲にある小豆島尾崎放哉(ほうさい)記念館を訪れた。

小豆島尾崎放哉記念館入口の句碑

 尾崎放哉は、明治18年鳥取県邑美郡吉方町に生まれた。

 鳥取県立第一中学校を卒業後、第一高等学校、東京帝国大学法学部を卒業し、保険会社に入社した。

 絵に描いたようなエリートコースを歩んだ。

小豆島尾崎放哉記念館

 放哉は、一高在学中の19歳の時から俳句に熱中して一高俳句会に参加した。それがきっかけとなり、自由律俳句の創始者荻原井泉水と知り合った。

 自由律俳句とは、俳句の約束事である五七五の定型や季語に縛られずに作る俳句である。

 先ほどの写真の句碑にある、「障子あけて置く 海も暮れ切る」という放哉作の句が、自由律俳句である。

放哉の終の棲家、南郷庵(みなんごあん)を再現した建物

 放哉は、保険会社で働く傍ら、放哉の俳号を用いて荻原井泉水が主催した自由律俳誌「層雲」に自由律俳句を発表した。

 だが大正10年、放哉は37歳の時に、酒と人間関係に躓き、保険会社を退職した。

 その後の放哉は、朝鮮半島に渡って事業を始めようとしたり、日本に帰って各地の寺院に住み込んで寺男の仕事をしたりしたが、酒で失敗したり、重労働に耐え切れずにやめたりし、長続きしなかった。

再現された南郷庵

 大正14年、41歳の時に、放哉は荻原井泉水に、「淋しいところでもいいから、海の近くにある庵の番人でもしたい。近所の子供に読み書きを教えて、煙草代くらいもらいたい」という内容の手紙を書いた。

 荻原井泉水は、知人の井上一二を放哉に紹介する。井上の手引きで、放哉は小豆島に渡り、小豆島西光寺住職杉本玄々子の好意で、西光寺奥の院の南郷庵(みなんごあん)の庵主になることが出来た。

俳人放哉易簀(えきさく)の地」と書かれた碑

 小豆島尾崎放哉記念館の建物は、放哉終焉の地に南郷庵を再現したものである。

 記念館の中には、放哉直筆の句稿、日記、書簡などが展示してあるが、写真撮影は禁止であった。

 土間と2畳、8畳、6畳の和室があるだけの、簡素な庵である。

南郷庵の障子

 この南郷庵は、放哉の望み通り、海が近かった。

 放哉は、毎日海まで散歩しながら、自由律俳句を作り続けた。

 代表作の、「咳をしても一人」「いれものがない 両手でうける」は南郷庵で作られた。

尾崎放哉記念館の由来を刻んだ句碑

 だが放哉が南郷庵に住んだのは僅か8か月で、翌大正15年4月7日に、咽喉結核が原因で死去した。

 尾崎放哉の墓は、記念館に隣接する墓地にある。記念館で放哉の墓までの案内図を入手できるので、迷うことなく行き着くことが出来る。

尾崎放哉の墓(階段の正面)

 放哉の戒名は、大空放哉居士という。

 自由に生きた放哉らしい名だ。

放哉の戒名、大空放哉居士

放哉入寂の日

 放哉は、もう一人の自由律俳句の俳人種田山頭火と親交があった。

 私はどちらかというと、放哉より山頭火の句の方が好きである。

 山頭火の句は、自由律俳句でありながら、その底に流れるものが、西行、宗祇、芭蕉といった日本の漂白の詩人の系譜に通ずるものがあり、日本文学の伝統を継承しているとみなすことが出来る。

 言うなれば、旅先で眺めた風景を友達とみなすような句である。

 放哉の句は、もっと近代的なもので、個人の生活で体験したものをそのまま句にしている。

放哉の墓から眺めた土庄の街並み

 文学作品の好みは人それぞれだから、どちらがいいというものではない。

 さて、放哉の墓は、墓地の高台にあり、土庄の街並みを見下ろすことが出来る。

 放哉が小豆島で過ごした時間は僅か8か月であったが、満ち足りた気持ちで最期の日々を送ることが出来たのではないかと思った。