北淡震災記念公園から南東に車を走らせる。2キロメートル弱進むと、丘陵と溜池がまだらに広がる舟木地区に至る。
この舟木地区に不思議な神社がある。今流に言えば、パワースポットだろう。それが舟木石上(ふなきいわがみ)神社である。
この神社は、古代の磐座(いわくら)と思われる巨石群を祀っている。
今年2月9日の当ブログ「伊勢久留麻神社 勝福寺」の記事で紹介したが、昭和55年のNHKの特番で、北緯34度32分上に、太陽信仰にまつわる聖地が並んでいるという説が放送された。
この舟木石上神社もその線上に存在する聖地であるという。
舟木石上神社の鳥居の脇を見て驚いた。「女人禁制」と赤字で刻まれた石が建てられているのである。
大峰山や岡山県美作市後山にある道仙寺のように、修験道に関係する山で、女人禁制となっている所が現代にもあることは知っていたが、神社の境内が女人禁制になっている例は初めて見た。
しかもこの石、決して古いものではない。文字に塗られた赤色も、最近塗られたものに見える。つまり、今現在も女人禁制はしっかり守られているようだ。
一体ここはどんな場所なのだ。鳥居脇に説明板があった。
この説明板の説明を読んでも、今一つ腑に落ちない。ここは太陽信仰の聖地で、天照皇大神と大日如来の両者を祀っており、日を迎える座として男性が祭事を行うことになっているらしい。また、里人が固く現在までその祭事を守っていることが強調されている。
更に地元では、舟木石上神社は、舟木石神座と呼ばれていることが分かった。
鳥居を潜って奥に進む。
この神社に拝殿や本殿はない。巨石群そのものを神体として祀る太古の信仰の形を現在に残している。
境内で最も大きな石の前に、ささやかな祠が安置されているが、その祠の中に神様がいるわけではあるまい。主役はあくまで巨石である。
裏手に回ると、巨石の周りの木々の間に紐が張り巡らされており、中が禁足地であることが示されている。
また、正面の巨石の向かって左手に、小さな石が立っていて、その周りに紙垂を付けた竹の枝が立てられていた。
古代には、今のような神社の社殿はなく、山や石や木そのものを神様として崇拝していた。
祭儀を行うときは、周囲を玉垣で囲んだ樹木に注連縄を巻いて、神様が降臨するための依り代(よりしろ)にしたという。これを神籬(ひもろぎ)と呼ぶ。
現代でも地鎮祭の時に、台の上に紙垂を付けた榊を立てて、神様が降りてくる依り代にしているのを見かける。
この小さな石も依り代に見える。原始の神道祭儀がそのまま残っているようだ。
さて、女人禁制だからと言って、この石神座を女性が拝めないわけではない。鳥居の横には、女性用の参拝路がある。
女性用参拝路を進むと、境内の脇から石神座を拝めるようになっている。ちゃんと賽銭箱も置いてある。
女性用参拝路を奥に進むと、お稲荷さんがある。
この稲荷社の鳥居は木製だが、枝の根本を削らずに残した不思議な鳥居だった。
何か意味があるのだろうか。
舟木石上神社は、小さな丘の上にあるが、丘全体が紐で囲まれており、禁足地とされているのが分かる。
最近、日本文化の基層は何かということを考えるようになった。天皇家(大王家)が日本に君臨する前から日本列島に人は住んでいた。その頃の日本人の持った文化が、日本文化の基層だと思うが、文化の層を掘り進んでいくと、最後はこのような自然崇拝に突き当たるように思う。
天皇以前の日本というものを考えると、列島を構成する山や巨石や巨木や海や滝の崇拝が精神生活の中心だったろう。更に煎じ詰めれば、この列島そのものが御神体であるという考えに行きつくように思う。
これは、神州不滅というような観念的な国体観ではなく、具体的な物としての列島を崇めるという素朴な考え方である。
さて、舟木石上神社の周辺には、国指定史跡に指定される予定の舟木遺跡がある。舟木遺跡は、弥生時代後期とされる1世紀から3世紀前半にかけて、鉄器を生産していた集落の跡で、鉄製の漁具や中国製の鏡の一部、竪穴住居跡などが見つかった。
この舟木遺跡では、畿内よりも先に鉄器が生産されていたらしい。弥生時代の日本は、鉄器の大半を朝鮮半島からの輸入に頼っていたとされる。鉄器を生産していたこの地は、古代の先進地域だったと言える。
舟木遺跡と舟木石上神社は近接している。おそらく弥生時代のころからあの巨石群はあって、人々に崇拝されていたことだろう。
文字資料がなくて、そのころのことは靄の中にあるようでよく分からないが、現代に残る女人禁制と神籬のしきたりが、当時の人々の精神の在り方を示しているように思われる。