本日、昨年末以来となる淡路の史跡巡りを行った。
神戸淡路鳴門自動車道の淡路インターで下りて最初の交差点の南西角は、小高い丘になっている。丘の上は淡路SAで、観覧車が建っている。
実はこの丘周辺は、旧石器時代のナイフ形石器が発掘された、まるやま遺跡のあった場所である。
私は今まで、淡路島は昔も今も人口密度が低く、文化的にも畿内より少し遅れていたのではないかと漠然と思っていたが、今回淡路の史跡巡りを通して、淡路が遺跡の宝庫で、むしろ古代の先進地域だったのではないかという感を深くした。
この交差点を右折西進し、淡路島の西岸に向かう。目的地は、淡路市野島平林にある貴船神社遺跡である。
貴船神社遺跡は、弥生時代から奈良時代まで製塩が行われた集落の跡である。
人間が生きていくに当って、塩分は絶対必要なもので、塩分を取らなければ人間は死んでしまう。現代人は、簡単に塩を摂取することが出来るので、普段塩の有難さをあまり感じないが、昔は塩を作るのも手に入れるのも一苦労だった。
上杉謙信が、領地に海を持たない宿敵武田信玄に塩を送ったという逸事だけでも理解することができる。
海に囲まれた日本人は、海水を蒸発させて塩を作った。江戸時代には、塩田を作って塩を生産したが、古代の塩の生産はどうしていたのだろう。
説明板によると、まず海藻を採って天日干しにし、干した海藻に海水をかけて蒸発させ、海藻に着いた塩を海水で更に洗い落とし、濃い塩水を作ったようだ。
また、焼いた海藻に海水をかけて濃い塩水を作ったという説もある。
そうして出来た濃い塩水を、製塩用の土器に入れて、煮詰めて水分を蒸発させて塩を取り出したらしい。
気の遠くなるような地道な作業である。
遺跡公園では、当時の製塩作業を再現したブロンズ像が展示されている。なかなかリアルで、本当にそこで人間が作業している気配を感じるほどだった。
最後の製塩土器で塩水を煮詰める作業は、古墳時代中頃から石敷きの炉の上でされるようになった。貴船神社遺跡は、兵庫県下で初めて製塩用の石敷炉が発掘された遺跡である。
土の上で煮詰めるより、下に石を敷いた方が、熱を反射して温度が上がることを古代人は知っていたのだろう。
製塩用の土器は、最初のころは下に脚台を付けて、砂に脚台を刺して土器を立て、その周囲を燃料の木で囲み、火をつけて煮た。
後に訪問した北淡歴史民俗資料館には、引野遺跡で発掘された脚台付きの製塩土器が展示してあった。
貴船神社遺跡では、5~6世紀に技術革新が起こり、石敷炉の上で煮るようになった。石敷炉の上に、底部を薄くして、熱が伝わりやすくなるよう工夫した製塩土器を置いて煮るようになった。
貴船神社遺跡では、淡路島内だけでなく、畿内の大和王権を支えるための塩が大量生産され、船で運ばれていたらしい。
ブロンズ像で再現されているのは、古墳時代中期以降の石敷炉を用いた製塩作業だろう。
また、竪穴住居のブロンズ像もある。住居の中で、家の刀自(とじ。奥さんのこと)が竈を使って調理をしている。
竪穴住居が方形になり、竈が付くようになったのは、古墳時代からである。この竪穴住居は、古墳時代のものである。
また、貴船神社遺跡に住んだ人たちは、蛸壷漁を生業としていたようだ。この遺跡からは、蛸壷漁に使われていた古代の蛸壷が発掘されている。
蛸壷の上の穴に紐を通し、海底に沈めて、壷の中にイイダコが入ったら、紐を引っ張って引き上げたのだろう。
淡路島北西部のこの地域を野島というが、ここに住んで蛸壷漁や製塩を生業にしていた海人を野島海人と呼ぶ。
潮流の早い明石海峡で、巧みに操船しながら漁をしていた野島海人は、大和王権に船の漕ぎ手として重宝され、水軍の漕ぎ手としても活躍したらしい。
「古事記」「日本書紀」にも、淡路島の海人のことが度々出てくるそうだ。
また「万葉集」にも淡路の海人のことが歌われている。遺跡公園には、野島海人の娘子(おとめ)をイメージした野島海人の像が建っている。
山部赤人は、「万葉集」巻六の第933、934の歌で野島の海人を歌っている。第934の短歌では、
朝なぎに 楫の音聞こゆ 御食つ国 野島の海人の 舟にしあるらし
御食つ国(みけつくに)とは、天皇に食料を献上する国のことである。当時の食卓では、魚介類が最も贅沢なものであったことだろう。畿内に近くて魚介が豊富だった淡路は、御食つ国として最適だったのだろう。
また、「万葉集」巻六第935の歌では、笠朝臣金村が、淡路の海人を長歌で歌っているが、その中に「(略)朝なぎに 玉藻(たまも)刈りつつ 夕なぎに 藻塩(もしお)焼きつつ 海人娘子(あまおとめ) ありとは聞けど(略)」とある。
海人の女子が、朝方に海藻を取り、夕方に海藻を焼いて塩を取っているという意味だ。
写真の野島海人の像は、立っている方は海藻を背負い、座っている方は製塩土器を手にしている。笠朝臣金村の歌を基にこの像を作ったのだろう。
さて、貴船神社遺跡と言うからには、遺跡の側には貴船神社があるが、この神社は元々寄神様(よりがみさま)と呼ばれていた。
10月を別名神無月と言うが、日本中の神様が出雲大社に出張して神様がいなくなるのでこの名称がある。逆に出雲では10月を神有月と言う。
各国の神様達は、神無月に出雲に向かう前に、自国の寄神神社に集合してから出発した。出雲からの帰りも、神々は自国の寄神神社に寄ってから解散した。
昔は、日本各国に、寄神神社が一つあったそうだ。大体その国の中で出雲に近い場所に寄神神社は造られた。淡路では、島で最も出雲寄りのこの地に寄神様が祀られた。
淡路の寄神神社は、宝永二年(1706年)に、京都鞍馬山の貴船神社を勧請し、貴船神社と呼ばれるようになった。
出雲に出発する前に、国の神様が寄神神社に集合するという話は、今回史跡巡りをして初めて知った。なかなか面白い話である。
貴船神社の境内には桜があったが、六分咲きといったところだった。
温暖化のせいか、年々桜の開花が早くなっている気がする。
今回の淡路の史跡巡りは、桜を愛でる旅でもあった。
そして、遺跡の前には、古代と変わらぬ播磨灘が広がっていた。
昔、山部赤人は、ここで目を覚まし、野島海人の操る楫の音を聞いたのだろうか。