備前国分寺跡のすぐ東隣にあるのが、国指定史跡両宮山古墳である。
岡山県下第3位の大きさの古墳で、備前国では最大規模の古墳だ。墳丘は全長約206メートルである。
両宮山古墳は、元々は二重の濠を持った前方後円墳だったが、現在は、空撮写真のとおり、外濠は埋められ、内濠は約4分の3が残っている。
中堤の跡に登り、上の写真の「現在地」から古墳を撮影するが、大きな古墳の例に漏れず、近づくと古墳の全貌をレンズに納めることが出来ない。
古墳の西側は、古墳がこれ以上浸食を受けて崩れないよう、石を詰めたふとんかごで護岸工事がしてあった。
両宮山古墳は、5世紀後半に築造された。詳細は不明だが、吉備地方の有力な豪族のお墓であろう。
陪塚(ばいちょう)も築かれており、大和王権の大王に次ぐ格式で造られた古墳である。ここに眠る人がどんな人物だったのか、興味が掻き立てられる。
内部主体はまだ未調査である。もし石室や石棺が盗掘されずに残っていたら、どんなものが発掘されるだろう。
両宮山古墳には、東側の集落から登ることが出来る。
前方部方向には道がついているが、後円部には登り道がない。後円部は鬱蒼とした森林に覆われており、近づき難い。
前方部上には、両宮神社という名の神社がある。鳥居は天保七年(1837年)の銘が彫られていた。
これだけ大きな古墳を築くとなると、相当な労働力と資金が必要である。5世紀後半には、吉備国は、まだ備前、備中、備後に分かれていない。被葬者は吉備一円を勢力下に収めた人物だろう。
5世紀後半と言えば、雄略天皇の時代だが、「日本書紀」には、雄略天皇とその子清寧天皇が、吉備地方の反乱を鎮圧したと見えている。両宮山古墳は、大和王権に反旗を翻した者の墓だろうか。反旗を翻して鎮圧された者の墓を、こんなに大々的に築くことが出来ただろうか。分らない。
両宮山古墳の北側には、同じく5世紀後半に築かれた陪塚の和田茶臼山古墳がある。
陪塚とは、大きな古墳の周囲に築かれた規模の小さな古墳のことで、主となる古墳の被葬者の臣下の者が埋葬されたものとされている。
この茶臼山古墳は、直径約30メートルの円墳だが、元々は二重の濠を巡らした帆立貝形古墳だったそうだ。
両宮山古墳の南側には、同じく陪塚の廻り山古墳と森山古墳がある。
廻り山古墳は、自然の丘陵を利用して造られた前方後円墳らしい。築造年代は、やはり5世紀後半である。その後の墳丘の改変が著しく、詳細は分らないが、かつては墳丘全長約65メートルの古墳だったようだ。
この古墳は藪が深く、登っていけなかった。
次の森山古墳は、墳丘全長約85メートルの帆立貝形古墳である。
森山古墳も、5世紀後半の築造である。
分りにくいが、写真の右側が、造り出しの部分に当るようだ。
円墳の部分は、高さ約11メートルにもなる。登り道があり、二段式の円墳に登っていけた。
森山古墳の墳丘上からは、森山古墳の被葬者が主と慕ったであろう首長が眠る両宮山古墳が見えた。
現代人の感覚では、職場の上司をいくら尊敬していても、死後も傍で眠りたいとは考えないだろう。
我が国には、江戸時代初期までは、主君に殉ずる殉死という風習があった。
この陪塚に眠る人も、死後も首長についていくとの覚悟の上で葬られたのだろう。
それが良いか悪いかは問わないが、家族制度を含めた人間社会の有り様も、時代時代で変わっていくものである。