岡山市東区瀬戸町観音寺にある環太平洋大学の敷地内に存在するのが、玉井丸山古墳である。
玉井丸山古墳は、5世紀前半に築造された前方後円墳である。
墳丘上に、大学の施設群が建っているため、墳丘はほとんど原型を留めていない。
遠くから眺めれば、かろうじて古墳らしい形が判別できる。
丘の南東側が後円部であると思われるが、上に建物が建つただの丘にしか見えない。「玉井丸山古墳」と刻んだ標柱が建っているおかげで、かろうじてここが古墳であると分る。
丁度後円部と前方部の中間あたりに車道がある。そこから後円部上に登ってみると、かなりの大きさの後円部であることが分る。
後円部は直径約87メートル、高さ約10メートルだそうだ。
古墳の全長は約137メートルであり、岡山県下有数の大きな前方後円墳である。
写真の煉瓦道が、丁度後円部の中心くらいになる。奥が前方部になるが、御覧のように一段低くなっていて、その上に建物が建っている。
前方部の周辺には池が残っている。かつての周濠の名残であるとみられる。
玉井丸山古墳は、後円部に竪穴式石室があるそうだが、未だ本格的な発掘調査が行われていない。発掘が待たれる。
玉井丸山古墳の墳丘上には、明治時代から昭和43年まで、玉井小学校が建っていた。
玉井丸山古墳の脇には、小学校当時の建物を利用したと思われる瀬戸町郷土館が建っている。町内の古墳からの出土品や、万富東大寺瓦窯跡から出土した東大寺瓦などが展示してあるらしい。
私が訪れた日は休館日であった。
さて、玉井丸山古墳から北に進み、低い峠を越えると、赤磐市穂崎という地域に入る。
穂崎にある松尾神社の北東の田の中に、いかにも古墳という形をした墳丘がある。小山古墳である。
ここまで明確な前方後円墳の形を認識すると、何故かほっとする。
小山古墳は、5世紀終わりから6世紀初頭にかけて築造された古墳である。第26代継体天皇が登場する前くらいの時代だろう。
小山古墳は、全長約55メートル、後円部直径約35メートルというサイズである。
後円部上には、稲荷社が建っていて、墳丘の一部が破壊されているが、概ね古墳の形を留めている。
後円部中央の石室は盗掘され、破壊されている。
石室周辺には、割れた舟形石棺の一部が露出している。この石棺は、九州阿蘇山の溶結凝灰岩で造られているそうだ。無残な姿である。
小山古墳から東に行くと、同じ穂崎の地域内に朱千駄(しゅせんだ)古墳がある。
朱千駄古墳は、5世紀後半に築造された前方後円墳である。
全長約70メートル、後円部径約40メートル、高さ約6.5メートルである。
明治初年に後円部の内部主体が発掘され、長さ約2メートル、幅約1メートルの、播磨国竜山石製の長持形石棺が発掘されたそうだ。
この石棺は、現在岡山県立博物館の玄関に展示されているらしい。早く見たいものだ。
副葬品として、銅鏡、蛇行状鉄器、勾玉、管玉、刀剣等多数が出土した。夥しい朱が発見されたことにより、朱千駄古墳という名称がついたらしい。
思えば、明治初年まで、一般民衆は、身近にある古墳がそもそも何なのか知らなかったのではないか。
古墳が造られてからかなりの時間が経過して、元々築かれた経緯は地元の人も分らなくなっていたろう。江戸時代のころには、古墳の正体を知っていたのは、一部知識人だけだったろう。
明治に入って、古墳が古代豪族の墓だと知れ渡った途端、あちこちの古墳が盗掘された。そのおかげで数多くの文化財が盗まれ、散逸した。
その正体が周囲の住民に知られていなかった時代の古墳の方が、静けさに包まれて幸福だったのかも知れない。