福田海 前編

 7月15日に備中の史跡巡りを行った。

 私は今まで、播磨、備前、美作、摂津、但馬、因幡丹波、淡路の8か国の史跡巡りをしてきた。

 播磨の史跡巡りは令和2年に、備前は今年終了した。備前の西隣の備中は、私が史跡巡りで訪れた9つ目の国になる。

 また新しい冒険の始まりである。

 最初に訪れたのは、岡山県岡山市北区吉備津にある、真金(まがね)一里塚である。

真金一里塚(南塚)

 一里塚は、江戸時代初期に、徳川家康徳川秀忠が旅の目安とするために整備したものである。

 江戸を基点に、各街道の両側に一里(約4キロメートル)毎に築かれた塚である。

 塚の形が壊れないように、塚の上に木が植えられ、木の根が塚の形を維持した。

真金一里塚(北塚)

 真金一里塚は、旧山陽道を挟んで両側に設置されている。岡山城下からは万成に次いで2番目の一里塚であり、北塚に松、南塚に榎が植えられている。

 今植えてある木は、勿論江戸時代のものではなく、後世に植え替えられたものである。

山陽道と真金一里塚

 江戸時代の一里塚は、ほとんど消失してしまったが、この真金一里塚は完存といっていい形で残されている。

 昭和3年に国指定史跡となった。

 備中の旅の始まりが、一里塚というのは、何だか気分がいい。

 さて、ここから南下し、吉備の中山の北麓にある福田海(ふくでんかい)を訪れた。

吉備の中山(西側)

吉備の中山(東側)

 第7代孝霊天皇の皇子であった吉備津彦命は、第10代崇神天皇の御代に、四道将軍の一人として山陽地方に派遣された。

 吉備津彦命は、吉備の中山に陣を布き、鬼と言われた温羅(うら)を退治したという。桃太郎の説話の元となった伝説である。

 福田海とは、文久二年(1862年)に岡山県高梁市に生まれ、昭和11年に死去した宗教家中山通幽が開祖となった宗教団体である。

福田海

 中山通幽は、3歳で吉備津の多田家の養子になった。

 16歳から当山派(真言宗系)の修験道の修行の道に入り、明治28年に宗教団体無縁仏法界講を結成し、無縁仏の供養に取り組んだ。

 明治33年に、修験道を基に、陰徳積善をモットーとする宗教団体福田海を立ち上げた。

 昭和2年に、吉備津に戻り、有木山青蓮寺を福田海の聖地とした。

 福田とは、功徳となるような善行を指す言葉だそうだ。

長床

 中山は、例えば道端に倒れた地蔵を見つけた際、地蔵に向けて般若心経を唱えるよりも、地蔵を抱え起こして元に戻した方がはるかに功徳があると言った。

 経を唱えるより、具体的な行動に価値があるという考え方である。

 福田海で有名なのは、次回に紹介する牛の鼻ぐり塚である。

 人間のために働き、食用となった後に死んだ牛などの動物を供養するための塚である。

 中山は、無縁仏や動物のような、名もなく忘れ去られた存在の供養に生涯を捧げた人物だったようである。

長床に掲げられた「日本神変道」の扁額

長床の屋根

 福田海の手前には長床と呼ばれる吹き抜けの建物がある。

 その手前には、柴燈護摩に使われる壇がある。

 長床は、天下泰平、天候和順を祈念する祭場であるらしい。

福田海入口

 福田海の入口の石柱を過ぎると、左手に事務所があるが、無人であった。

 事務所には、賽銭箱と護摩木が置いてあった。

 100円を支払って護摩木を買うと、鼻ぐり塚を含む境内を見学できるようだ。

 私は賽銭箱にお金を入れて、護摩木を手にした。護摩木には、「家内無事」と書いた。

 これを鼻ぐり塚の前に置くと、毎週日曜日に山主が行う護摩供養で焚いてくれるらしい。

 さて、境内の中心にある中堂から見学した。

中堂

 中堂は、吹き抜けの建物だが、中心に水神を祀っている。中堂の周囲には、四十九の石塔がある。

 行基菩薩が説いた、弥勒四十九ヶ院浄土説法に拠る建物だそうだ。

中堂

四十九の石塔

 中堂の中央には、井戸がある。この井戸に水神が宿っているのだろうか。

中堂中央の井戸

 井戸の真上の天井には、龍の彫刻が備え付けられている。伝説の彫刻家左甚五郎の作と伝えられている。

 この彫刻が、井戸の水面に映る仕掛けになっている。

左甚五郎作と伝えられる龍の彫刻

 龍の彫刻の上には、八角形の枠が嵌められていて、枠に易の八卦が書かれている。

 福田海は、修験道、仏教、神道だけでなく、儒教聖典易経」の影響も受けているようだ。

 また、中堂の天井には、木製の経塔が多数置かれている。

経塔

 経塔は、経や陀羅尼を書いた紙を納めた木製の塔である。聖徳太子の時代によく作られた。

 中堂の奥に、巨大な岩があり、その上に修験道の開祖役行者(えんのぎょうじゃ)と、修験道中興の祖で醍醐寺の開祖理源大師聖宝(しょうぼう)の石像がある。

役行者と理源大師聖宝の石像と軍艦鎮遠の錨

 向かって右が、修験道を開いた役行者役小角)こと神変大菩薩の像であり、向かって左が理源大師聖宝の石像である。

 中央の梵字が刻まれた錨は、日清戦争日本海軍に撃沈された清国の軍艦鎮遠の錨だという。

 艦霊の鎮魂のためにここに置かれ、今は不動尊として祀られているという。

役行者の石像

 役行者は有名だが、聖宝は一般にはあまり馴染みがないかも知れない。

 平安時代初期に活躍した聖宝は、弘法大師空海の孫弟子の真言宗僧侶だが、弘法大師に憧れて山岳修行に力を入れた。

 そして山科に醍醐寺を開創し、真言宗系の修験道(当山派)を開いた。

理源大師聖宝の石像

 日本の各地にある修験道の聖地は、伝説では大抵役行者が開いたとされているが、実際は聖宝が開いたものが多いという。

 そうすると、現代に続く修験道の実際の祖は、理源大師聖宝と言えるかも知れない。

 なお、三井寺が中心となった天台宗系の修験道は、本山派と呼ばれている。

 巻物と錫杖を持った役行者と聖宝の石像からは、どことなく天狗のイメージが沸く。

 真言を唱えながら自由に山野を跋渉した修験者たちは、人々から異界の天狗のように敬われたことだろう。

 明治の神仏分離で大打撃を受けた修験道は、今少しづつ復興しつつある。

 修験道が鎹になって、日本の神道と仏教と山岳信仰が結びつく日がまた来ることだろう。