白鶴酒造資料館 後編

 麹室で作られた麹は、蒸米と共に半切桶に入れて、水に吸着させる。

 麹と蒸米が水によく吸着したころ、2人の作業員が山卸という棒櫂でかき混ぜる。麹、蒸米、水をすり潰して、糖化を早める作業である。酛摺りという作業である。

 こうして酛(もと)又の名酒母と呼ばれる日本酒の元が出来上がる。

酛摺りの工程

 次の作業は、三段仕込みである。

 仕込桶の中で、酛に水と米と麹を加えることを仕込みという。添、仲、留の三段階に分けて仕込むのを三段仕込みという。

 酛に倍の原料を加えて仕込んだのを添という。添の倍量の原料を加えて仕込んだものを仲、仲の倍量の原料を加えて仕込んだものを留という。

三段仕込

 仕込桶の下から順番に、添、仲、留と仕込んでいく。

 仕込桶の中で添、仲、留が発酵して、醪(もろみ)になる。

 ところで、仕込みの作業は2階でされているが、この蔵には、巨大な仕込桶などの重い荷物を1階から2階に釣り上げる滑車がある。八角形の車輪と車軸で構成された滑車である。

 八角形の車輪の形が阿弥陀如来の光背に似ていることから、阿弥陀車と呼ばれた。

阿弥陀

阿弥陀車で釣り上げられる仕込桶

 本来1階の天井は閉じられているが、阿弥陀車で大きな荷物を2階に上げるときには開閉される仕組みになっていた。狭い蔵を有効に使う工夫である。
 さて次は、仕込桶で仕上がった醪を酒袋に入れて、酒槽(さかぶね)の中で絞って酒と粕に分離する。この作業を経て、清酒が生まれる。上槽という工程である。

上槽の工程

 上の図のように、醪を酒袋に入れて酒槽に積み込み、男柱、撥棒、重石を用いて梃子の原理で酒袋を上から押さえて圧搾し、酒を垂壺に絞り出す。

男柱、撥棒、重石

酒槽内の酒袋を圧搾する状況

絞り出された酒が垂壺に落ちる

垂壺

 酒が落ちる垂壺は、備前焼の大甕が使われることが多い。

 搾りたての酒はまだ白く濁っている。約一週間置いて滓を沈殿させ、上澄みを他の
桶に移す。

 こうして滓引きされた酒は、熟度香味の調節のため、釜に入れられて約60度に加熱される。これを火入れという。

 火入れの終わった酒は、貯蔵桶に入れて酒の上に浮いた泡を掬い取り、蓋をする。

貯蔵桶

 蓋の上には、一個十貫(37.5キログラム)ある重石か石入俵を10個並べ、桶と蓋を密着させて目張りする。

 貯蔵が始まるのは、桜咲くころで、秋まで貯蔵される。

 貯蔵が終わって完成した清酒は、四斗樽に詰められ、出荷される。

樽詰の作業

 銘柄の商標を書いた藁菰(わらごも)を樽に巻き、とじ縄をかけると菰冠樽が出来上がる。

 江戸時代には樽詰された清酒は、樽廻船に積み込まれ、清酒の一大消費地の江戸に運ばれた。

樽廻船の模型

 灘地域は、海岸線に近かったため、船積みの便に恵まれた。大坂や西宮には樽廻船問屋が沢山できた。

 この樽廻船は、陸上輸送よりも大量の酒樽を輸送できた。江戸時代末期には、1年で百万樽もの清酒が江戸に下った。

樽廻船の航路

 樽廻船で運ばれた酒は、樽の杉の香が移り、熟成が進んで品質が向上した。

 灘から出発した樽廻船は、江戸の清酒需要の8割を供給するまでになったという。

 こうして灘五郷でできた酒は、日本中の人たちを酔わせたわけだ。

 館の1階には、備前焼の大甕が展示してある。

 御影郷にあった石屋甲蔵、乙蔵跡の発掘調査により、発掘された垂壺である。

発掘された垂壺

 甕の肩部に、「捻土 御誂也 上々」と刻まれている。特別な土を使って最高の作りをした注文品だったということがわかる。

大甕肩部の線刻

 この大甕が制作されたのは、文禄年間(1592~1595年)と言われている。

 この大甕に限らず、酒造で使われた道具は、どれも一級の清酒を造るために選りすぐられた材料で出来ている。

 こうした道具を使って丁寧に造られた清酒は、多くの人々を幸せな気分にさせてきた。

 昔から、灘五郷の酒造職人たちは、世の人たちを幸せに酔わせることに、誇りを持って酒を造り続けてきたことだろう。