菊正宗酒造記念館

 白鶴酒造資料館の見学を終え、そこから少し東の神戸市東灘区魚崎西町1丁目にある菊正宗酒造記念館を訪れた。

菊正宗酒造記念館

 菊正宗は、灘五郷の一つ御影郷に属する清酒の銘柄である。

 菊正宗酒造記念館の旧記念館は、万治二年(1659年)に本嘉納家本宅敷地内に建てられた本店蔵という酒蔵を、昭和35年に現在地に移して開館したものであった。

 酒造りは鉄分を嫌うことから、本店蔵は、釘や鎹(かすがい)を使わない京呂組という手法で建てられた。17世紀の近畿圏の酒蔵造を代表する建物だった。

本店蔵の模型

震災前の旧記念館

 だが平成7年1月17日に発生した阪神淡路大震災により、旧記念館は倒壊してしまった。

 菊正宗のある神戸市東灘区は、市内で最も建物の倒壊率が高かった地域である。

 灘五郷も大きな被害を受け、震災がきっかけで廃業した酒蔵が数多い。震災前に60余蔵を数えた酒蔵は、現在26蔵と半分以下に減ってしまった。

 震災で倒壊した旧記念館から酒造用具を取り出し、旧記念館の柱や梁を再利用して、平成11年に再建されたのが、現在の菊正宗酒造記念館である。

菊正宗の商標

 菊正宗は、江戸時代には正宗の銘で酒を造っていた。

 天保年間(1831~1845年)から、江戸表の販売市場では、「酒は正宗」と言われていた。

 明治17年の商標条例により、正宗の商標を出願したが、他に競願者がおり、受理されなかった。

 当主の嘉納秋香翁は、日夜酒銘に心を砕いていたが、ある時庭先に咲く一輪の白菊に目が移った。

 翁は、菊は霜雪をしのいで香気馥郁たるが如く、人は万難を排して意気ますます軒昂たるべしと思い、「菊なるかな」と膝を打った。

 これが、菊正宗の酒銘の誕生経緯である。

菊正宗のポスター第1号(大正2年)

 記念館の壁には、菊正宗の第1号ポスターである日本画家北野恒富作の美人画が掛けられていた。

 国指定重要有形民俗文化財であるという。

 北野恒富は、明治末期から昭和初期にかけて、大阪画壇で活躍した画家である。恒富は頽廃的な美人画を描いたため、画壇の悪魔派と評されるようになった。

 この北野恒富や甲斐庄楠音(かいのしょうただおと)など、大正時代には頽廃的な美人画が流行した。谷崎潤一郎芥川龍之介の文学と並んで、大正時代の文化を担った。

 北野恒富は、文学作品の挿絵や商品のポスターも多く描いた。日本に商品経済が発達したのと軌を一にしている。

 さて、菊正宗酒造記念館には、国指定重要有形文化財に指定された酒造用具560点が保存展示されている。

酒造展示室

 前日、前々日に白鶴酒造資料館の記事で、酒造工程を紹介したから、今回はそれほど詳しくは紹介しない。

 酒造用具を展示する酒造展示室では、酒造りの工程に沿って、用具が8つに分けて展示されている。

 1番目は、杜氏を筆頭に酒造りに従事する職人が生活した部屋である会所場である。

会所場

 酒造りのシーズンである秋から桜咲くころにかけて、職人たちは酒造りに励みながらこんな部屋で食事をしたり休憩した。

 良い酒造りには、寒冷な時間帯での作業が必要である。そのため職人たちは、午前2時半起床、午後6時就寝という生活をしていたという。

 2番目は酒米を洗う洗場である。

洗場

 精米した白米を桶に入れて素足で踏み洗いした。真冬に3時間冷たい水で踏み洗いしたという。過酷な作業である。

 酒造りに最も適した水分を米に含ませる必要があるが、米を水に漬ける時間や水の温度が米の蒸し上がりに大きな影響を与えるので、この作業には職人の研ぎ澄まされた経験と勘が必要であった。

 3番目は釜場である。

釜場の甑と大釜

釜の焚き口

 大釜に入れた水を炊いて発生した蒸気で、大釜の上の甑に入れた酒米を蒸した。

 蒸し上がった米を甑から取り出して、筵に広げて冷やした。

放冷のための筵などの道具

 蒸した後に冷やされた米の一部は、麹室で種麹をかけられ、麹になった。

 4番目がその作業を行った麹室である。

麹室

麹室の壁の中の断熱材

 麹の製造にのためには、麹室の温度と湿度を一定に保つ必要がある。

 麹室の壁は75センチメートルの厚さの土壁であったが、その中に藁束を入れて断熱材にした。

 5番目は、酛(もと)場である。

酛場

 半切という桶の中に、麹と蒸米と宮水を入れて、櫂という道具ですり潰し、乳酸菌で発酵させ、酛という日本酒の元を造る。

 この生酛(きもと)造は、丹波杜氏秘伝の技であったという。

 6番目は造蔵である。

造蔵

 大きな仕込桶の中で、酛に蒸米、麹、仕込水を加えて徐々に発酵させ、醪(もろみ)を造った。醪は、アルコール分約20%の原酒である。

 発酵が進むと、醪から様々な泡が出てくる。杜氏はこの泡で発酵の進み具合を判断したという。

 7番目が槽場(ふなば)である。

槽場

圧搾される酒槽の中の酒袋

 醪を酒袋に入れて、酒槽(さかぶね)の中に積み込み、男柱に差した撥棒を梃子の原理で押し下げて、酒槽の上に置いた石を押し、中の酒袋を圧搾した。

 圧搾された酒袋から清酒が絞り出された。こうして醪は清酒酒粕に分離される。

 最後の8番目は、清酒を貯蔵した囲場である。

囲場

 清酒のおりを沈殿させて、上澄みのみを取り出し、密閉された貯蔵桶の中に入れて春から秋まで貯蔵して熟成した。

 こうして秋頃に晴れて清酒が完成した。

菊正宗の清酒

 私はお酒に強くないので、あまり嗜まない。特に日本酒は飲むと酔い方がいつもと変わるので、あまり得意ではない。

 だが冷酒は飲みやすいと思う。

 記念館の2階には、文化財収蔵庫があるが、作業中で入ることが出来なかった。

文化財収蔵庫

 文化財収蔵庫の手前に、盃を並べて展示してあった。

展示された盃

 お猪口や盃も、酒に伴う文化の産物である。

 記念館には、菊正宗の製品を販売する売店が併設されている。

菊正宗の売店

 私は、お酒が得意ではないので、お酒の味の違いがよく分からない。

 一時ウイスキーを晩酌で飲んでみたが、角瓶の味と響の味の違いが分からなかった。

 違いが分かる人なら、このような売店にきたら、試飲してみたりして、さぞ楽しいことだろう。

 日本酒は、今やヨーロッパなどでも飲まれている。洋食にも意外と合うのかもしれない。

 清酒が世界中で嗜まれるようになったのは、喜ぶべきことだ。